法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

良寛さんの災難をのがるる妙法を読んで

(1)良寛さん

良寛さんは大地震に見舞われた大切な友人宛の手紙に、次のように書いたそうです。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」

良寛さんが意図することは私にはわかりません… しかしこれを読んで次のようなことを思いました。


(2)我が子

仏教の因果の法則によると、『因』が『縁』を得て『果』を生じるそうです。これを「一人称」の視点で書くと、次のようになるのではないかと思います。

  1. 私の中に『因』があるからこそ、目の前に『縁』が現れて、化学反応を起こして『果』を生ずる。『果』は新たな『因』となり、また他者への『縁』ともなる。これが無限に繰り返されるため、あらゆる物事は瞬々刻々と移ろいゆく。

  2. すなわち、あらゆる物事は、私の中に『因』があるからこそ『果』となって現実化している。見方を変えると、あらゆる『果』は我が子である。良きことも悪しきことも、すべてを受け入れることが肝要である。何があっても浮き足立つことなく、我が子に対して最善を尽くすことが大切である。

  3. 最善を尽くしていると、やがて道は開ける。どんな幸運に恵まれても思い上がることなく、どんな不運に見舞われてもめげることなく、ただひたすらに最善を尽くしていると、やがて思いもしなかった道が開ける。

これは「七仏通誡偈」の教えに通ずるようにも思います。


(3)緊急事態宣言

報道によると、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく緊急事態宣言及び蔓延防止等重点措置が全国的に解除されたそうです。安堵しておられる方は多いのではないかと思います。

その報道を見て、良寛さんの言葉を思い出しました。良寛さんの言葉を見て、因果の法則を思い出しました。そして今日の作文を書きました。良寛さんの意図とはまったく関係のない、私自身宛のメッセージでもあります(笑)


〔参考〕七仏通誡偈

「悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが諸仏の教えである」(中村元訳『法句経』より)

「諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)」(漢訳)

結論ありきの思考方式と常識と大樹の陰と

(1)頭の中

歴史上の人物の頭の中を窺い知ろうと思ったら、入手可能な文献等から推測するしかありません。古今東西の学者や作家の腕の見せ所ではないかと思います。

一方、同時代の人物の頭の中を覗き見ようと思ったら、著作物・逸話・評判などから推測したり、対話を通して掘り下げたりなど、手段は豊富にあります。その結果、わかったつもりになることはできるかもしれませんが、本当にわかるのはとても難しいのではないかと思います。仮にこの世で一番親しい人であったとしても…です。


(2)思考方式

同様に、同時代の人たちが日常的に使っている「思考方式」も、窺い知ることが難しいテーマのひとつのように思います。自分自身の頭の中を覗き見ることはほとんど不可能だからでもあり、また自分自身にとっての「当たり前」を自分自身で認識することは非常に難しいからでもあります。

これまでの様々な経験からの印象では、次のような「思考方式」を取っている人が見受けられるように思います。

  1. まず、結論の方向性を決めます。例えば、結論の自由度が高いときは、「私は偉大だ」「あいつはバカだ」「○○はスゴイ」「××はヒドイ」「□□はコワイ」「△△はデタラメ」などです(印象等から無意識のうちに瞬間的に決まるようです)。あるいは、エライ人から直接間接に結論の方向性を示されたときは、最大限に従います。

  2. 次に、結論の方向性に向けて思考します。その際、情報のつまみ食いや曲解、論理の飛躍、空想を多用します。

  3. 最後に、思考過程をストーリー化して結論報告とします。

このように、思考結果への指向性が極めて高い思考方式が取られることがあるように思います。おそらく、納得感が非常に高く、かつ想定内にぴたりと収まる理想的な結論が得られるからではないかと思います。そのため、この思考方式を上手に使いこなせる人は、コミュニティのオピニオン・リーダーになりやすいのではないかと思います。

ただし、結論は秘匿される傾向にあり、鵜呑みにしてくれる人に限定して流布されることが多いように思います(一種の密室主義)。特に反論する可能性のある人(当事者など)には、秘される傾向があるように思います。結論と事実が大きく乖離している可能性が高いため、どこか後ろめたさがあるのかもしれませんし、あるいは事実に基づいた反論により結論が崩壊することを恐れてのことかもしれません。ひょっとしたら「井の中の蛙」でいることが快適なのかもしれませんし、「高みの見物」を決め込みたいのかもしれません。いずれにしても、反論から距離を置くところに特徴があるように思います。


(3)本音と建前

前述の思考方式を用いて一人一人が出した結論は「本音」に分類されるように思います。

おしゃべり・噂話などを通して「本音」をジャブのように交換する中で、コミュニティとしての合意が形作られていくのではないかと思います。結論には、エライ人の意向や都合、多くの人の不安や期待などが折り込まれたものとなっているのではないかと思います。この結論は「建前」に分類されるように思います。

噂話の参加者は、建前に納得して本音を変えることもあれば、本音と建前が別々のままのこともあるのではないかと思います。そして、TPO に応じて本音と建前を使い分けるのではないかと思います。


(4)常識

組織のトップが合意形成に参加した場合は、組織において特別な意味を持つのではないかと思います。その結論が上意下達で指示・命令として降りてくることもあれば、伝聞形式で忖度を要求されることもあるのではないかと思います。

学問の成果のうち、エライ人たちの意向に沿ったものは、常識として広く流布されるように思います。逆に意向に反するものは、流布を阻止されることがあるように思います。エライ人たちの意向に沿った研究活動に潤沢な資金が流入することが多いため、エライ人たちの意向に沿った研究成果が生まれやすいようにも思います。

また、長い歴史の中で合意形成された伝統も、重要視されることが多いのではないかと思います。中でも、歴代のエライ人たちの意向に沿った伝統が注目を集めやすいように思います。

このようにして、社会の常識や組織の常識が生まれるのではないかと思います。こうして作られた常識は「建前」に属するのではないかと思います。

前述の噂話と同様、常識についても、建前に納得して本音を変えることもあれば、本音と建前が別々のままのこともあるのではないかと思います。そして、TPO に応じて本音と建前を使い分けるのではないかと思います。


(5)堅牢性

一旦出来上がった常識や噂話には、様々な人たちの意向・都合・不安・期待などが折り込まれているため、個人の力で書き換えることは大変難しくなっているのではないかと思います。

そのため、常識や噂話に大きく反する主張は、たとえそれが事実に基づいたものであったとしても、簡単には受け入れてもらえないのではないかと思います。(場合によっては、個人の本音に組み込まれることはあるかもしれません)

言い換えると、常識や噂話では「真偽」という視点は軽視され、発言者の影響力がものを言うのではないかと思います。


(6)怒りと不安

一人一人の思考結果や、噂話や、常識は、それ以降の言動や思考の前提情報となるのではないかと思います。

これらの前提情報はいずれも前述の思考形式の産物なので、怒りや不安の原因となりやすいのではないかと思います。すなわち、前提情報から外れた言動を見ると怒りが沸き上がり、前提情報から外れた新情報が現れると不安に駆られるのではないかと思います。

その結果、常識から外れた言動を取ると世間の怒りを買うことになり、常識に合わせざるを得なくなることが多いのではないかと思います。これが同調圧力と呼ばれるものではないかと思います。

また、予想外の事態が発生すると世間の人々が大きな不安を抱えるため、事実を冷静に発表するよりも、安心感のある呼びかけを発信する方が好まれるのではないかと思います。


(7)爪弾き

常識や噂話から乖離してしまった人は、同調圧力を受ける可能性があるように思います。そして、頑張って自分を常識や噂話に合わせるか、諦めて爪弾きにされるか、二者択一を迫られることになるのではないかと思います。

爪弾きになりたくない人は、常識や噂話に自分を合わせようと努力した結果として、流行を追いかけたり(短期的努力)、社会的ステータスを重視したり(長期的努力)するのではないかと思います。

しかし中には、健康的・経済的・社会的な理由などから、どうしても常識や噂話に合わせられない人もいると思います。それでも頑張って世間の中で生きる人もいれば、隠れて(あるいは隠されて)暮らすことを選ぶ人もいるのではないかと思います。

街中を普通に歩いている人は、もしかたら世間の常識や噂話に合わせられた幸運な人だけかもしれません。


(8)寄らば大樹の陰

常識も噂話も、エライ人の意向や都合が優先されるので、強者の論理に基づいているように思います。したがって、常識や噂話に従うことは「寄らば大樹の陰」の実践と言えるかもしれません。その結果、回り回って知らないうちに弱者にシワ寄せを強いている可能性は十分に考えられるように思います。

すなわち、常識や噂話に従うことは、「弱きを助け、強きをくじく」と正反対の、「強きにかしずき、弱きをくじく」の実践となっているのかもしれません。かと言って、常識や噂話から外れた言動を取ると、社会的に痛い目にあう可能性が高いのではないかと思います。

もしかしたら現代日本に生きる私たちは、弱者を痛い目に「あわせる」立場を取るか、弱者となって痛い目に「あう」立場を取るか、二者択一を迫られているのかもしれません。その結果、前者を選ぶ人が多いのかもしれません。この二者択一から脱出できると、生きるのが楽になるかもしれません。

学者の本、どっぷり浸かってきた人の本

インド発祥の考え方(仏教を含めたインド哲学とその末裔)は、私にはとても興味深いです。そこで、図書館で関連書籍を時々借りています。何十年にも渡ってどっぷりと浸かってきた人たちの本は、とても興味深く読むことができます。一方、学者が書いた本は、事実関係を書いた部分には興味を惹かれる記述が多く見られますが、思想内容を紹介する部分はいまいち惹かれません…

学者は現存する文献を重視します。そして、当時の文化に関する知見を元に文献を読み込んで、学会の常識的視点(おそらく欧米的色彩の濃い視点)に基づいて考察して、哲学的に理解しようと試みているように思われます。この姿勢は、もしかしたらアカデミズムによる聖書研究から継承したものかもしれません。教義にどっぷり浸かった教会組織による神学研究とは一線を画すための研究手法として生み出された姿勢かもしれません。

見方を変えると、学者は過去の修行者をブラックボックスとみなして、文献等を通して彼らの思想を解明しようとしているのではないかと思います。それに対して、どっぷり浸かっている人たちは、自分たちの知見をそのまま伝えようとしているのではないかと思います(自分自身の知見は見通しがきくのでホワイトボックスと言えると思います)。

どちらの視点を好むかによって、どちらの著作を興味深く感じるかが変わるのではないかと思います。私はいつも「一人称」(当事者)の視点に興味を惹かれるので、どっぷり浸かった人たちの本に惹かれるのだと思います。

ドロドロとハリボテでの分類

(1)ドロドロとハリボテ

先日書いたように、多くの人の心の中は、ドロドロ感情(心の傷・欲望・煩悩)と、ハリボテ世界(想像・常識・噂話等)と、ペルソナ仮面(TPOに合わせた振る舞い)の三重構造になっているのではないかと思います。(相変わらず伝わりにくい表現で申し訳ありません…)

ここで、ドロドロ感情とは、心の中で蠢いている心の傷や欲望のことです。ハリボテ世界とは、ドロドロ感情の影響で生まれた想像世界のことです(ドロドロ感情の影響で、冷静に「思考」しているつもりでも、実際には情報のつまみ食いや論理の飛躍が頻繁に起きて、「想像」に変質してしまいます。そうやって生まれた想像世界のことを指す言葉です)。ペルソナ仮面とは、人や場に合わせた言動のことです。

さてこの三重構造は、ドロドロ感情とハリボテ世界の大きさで、大雑把に分類できるように思います。例えば、、

  1. 多くの人は、平均的なドロドロ感情を心に秘め、平均的なハリボテ世界で生きているのではないかと思います。そして、様々な苦悩を背負いながらも、身近な人たちと助け合って、笑顔で元気に生きているのではないかと思います。

  2. ところが中には、心に大きな傷を負ってしまって、巨大なドロドロ感情に苦しんでいる人もいるのではないかと思います。その反動で「私は偉大だ」と強く思い込んで、巨大なハリボテ世界を構築しているのではないかと思います。そして、威張り散らしたり怒り散らしたりしながら、時にはハリボテの作り話で誤魔化したり都合の悪いことは他人にシワ寄せしたりしながら、世渡りしているのではないかと思います。巨大なハリボテ世界をチラつかせることで、平均的なハリボテ世界の人たちの畏怖を誘って上手に籠絡する能力を持っているようです。

  3. その逆に、心の大きな傷が生み出した巨大なドロドロ感情に翻弄されて、ハリボテ世界が未発達な人もいるのではないかと思います。そのため、純粋な面を持つと同時に、感情や欲望を抑制しきれなかったり、心の大きな傷が無防備なため誤動作を起こしやすかったりする側面も持っているのではないかと思います。また、ハリボテ世界が発達している人たちの心の動き(気持ちや喜怒哀楽)が理解できず、話を合わせようと頑張れば頑張るほど却って不興を買ってしまいやすいのではないかと思います。逆に、ハリボテ世界が発達している人たちからは、理解不能な変な人と思われやすいのではないかと思います。

他のタイプの人もいるのではないかと思います。例えば、ドロドロ感情が小さくて、ハリボテ世界も小さな人などです。

多くの人は、常識や噂話を通して、ハリボテ世界をある程度共有しているのではないかと思います。常識も噂話も、エライ人たちの意向や都合が反映されているので、本来は書き換えてはいけません。そのため、常識や噂話の裏取りをする習慣のある人は、世間の人たちとハリボテ世界を共有することができず、なかなか世間に溶け込めないのではないかと思います。


(2)思考力か世渡り力か

人間の脳が持つ能力は、機能障害を抱えている人を除くと、似たり寄ったりではないかと思います。

そのため、心の中の構造がシンプルな人ほど、本来考えるべきことに脳のパワーを集中できるのではないかと思います。そして、より深く、より速く、より厳密に考えることができるのではないかと思います。

逆に、心の中の構造が複雑で巨大な人ほど、様々なことに脳のパワーを取られたり、余分なことを考えて混乱してしまったりして、本来考えるべきことに使える脳のパワーが不足しがちなのではないかと思います。そのため、浅く、遅く、曖昧になってしまう傾向があるのではないかと思います。

しかしながら、心の中の構造が平均的な人ほど、世渡りが楽なのではないかと思います。そこで、多くの人はハリボテ世界を平均レベルまで発達させることを選ぶのではないかと思います。心の中の構造がシンプルな人は、より深くより速くより厳密に考えることができる一方で、世間の人たちとハリボテ世界を共有できず、また思考結果を理解してもらえず、世間の周縁で生きるしかなくなるのではないかと思います。

ドロドロの奥へ、コツコツゆっくり

(1)サイ

サイ(犀)は大型の動物で、体長は軽自動車からコンパクトカー未満くらい(310cm〜420cm)で、高さは人間の大人より高いくらい(170cm〜200cm)で、体重は1.5t〜3.5tくらいだそうです。

大型なので人間社会との共存は難しく、また密猟も多いため、絶滅の危機にあるそうです(生息域はアフリカ大陸と、インド北部から東南アジアにかけての地域のみ)。雄は広大な縄張りの中で単独で暮らすそうです。草食で夜行性だそうです。

仏典『スッタニパータ』では「犀の角のようにただ独り歩め」と説かれているそうです。インドサイは角が1本しかなく、また単独で暮らしていることから、犀の角に喩えられたのかもしれません。また、仏典『涅槃経』では「自らを拠り所とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずに生きよ」という趣旨のことが説かれているそうです。意味するところは犀の角の喩えに近いように思います。


(2)ドロドロの奥へ

先日書いたように、多くの人の心の中は、ドロドロ感情(心の傷・欲望・煩悩)と、ハリボテ世界(想像・常識・噂話等)と、ペルソナ仮面(TPOに合わせた振る舞い)の三重構造になっているのではないかと思います。(意図するところが伝わりにくい表現ですね、すみません…)

この中で、多くの人の関心はハリボテ世界にあるのではないかと思います。世の中には大量の情報が出回ってますし、相談先もたくさんあることと思います。(一般的な道徳の話は、この部分に相当すると思います)

一方、私はドロドロ感情や、さらにその奥にあるものに興味があります。言い換えると、世間の多くの人は顕在意識で扱えることに興味があるのに対して、私は潜在意識の中で蠢いていることに興味があります。そのため、常識や噂話にも、一般的な道徳にも、あまり興味がありません。


(3)コツコツゆっくり

興味の対象がマイナーだと、情報源は限られてますし、相談できる人も滅多にいません。自分で探求するしかありません。まさに「犀の角のようにただ独り歩め」です。まさに「自らを拠り所とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずに生きよ」です。

独りで探求していると、どうしても間違いは多いですし、回り道も多くなると思います。根気も時間も必要です。幸い、このようなやり方には慣れてます。(むしろ、既存の理論を正確に身に付けることの方が苦手です)

自分自身が納得できるレベルに達するには長い年月が必要かもしれませんが、コツコツ続けるしかありません。ゆっくり探求していければと思っています。


(4)ぬるい作文

今年の夏の作文は、あらかじめあらすじのメモを作成してから作文するようにしてました。それまでは、潜在意識から上がってくるにまかせて作文していたので、ちょっとした進歩かもしれません。ただし、あらすじは潜在意識から上がってくるにまかせていたので、あまり大きな進歩ではありません(笑)

ところが、秋の気温になって、あらすじのメモから作文を起こすことが難しくなってきたようです。実は昨日は、リハビリ作文が文章としてまとまりそうになかったので途中で放棄しました。また、スタミナが落ちてきたのか、集中力が続かないこと多くなってきました。

俗に「暑さ寒さも彼岸まで」と申します。これからは秋の気温に合わせて、ぬるい作文が多くなってくると思います。

食品ロス

(1)居酒屋

以前、居酒屋での宴会に何度か参加したことがあります。

食べ物を注文すると、キャベツの千切りの上にメインの食べ物が乗って出てきました。まず上に乗ってるメインの食べ物から少しずつ食べて、さて次はキャベツだと食べ始めたら、気がつくとお皿ごとなくなっていました。また別の食べ物を注文しても、同じことが起きました。お店の方針で、キャベツだけのお皿を店員さんが回収していたのかもしれません。キャベツを食べてる暇があったら、次の料理を注文してね、ということなのかもしれません。

宴会が進むと、みんな箸が進まなくなって、テーブルの上に食べ残しのあるお皿がいくつか並んだ状態になります。私は食べ残すのは好きではないので、終わりの時間が近付くと、残ったものを少しずつ食べる癖がありました。そうやって食べ残しをなくしていくと、誰かが新たな注文をしてお皿が増えています。それも残したくないので食べるとまた誰かが新たな注文をします。どうやら、敢えて食べ残しを作っているようでした。

そんな経験を何度かして、居酒屋での宴会には参加しないことにしました。元々、歓送迎会以外の宴会には参加する習慣がなかったので、人生の中のほんの一時期の経験でした。たまたま食品ロスの多い宴会ばかり選んで参加していたのか、どこの宴会もそうなのかは、わかりません…

はたして、人間と食べ物は幸せな関係にあるのでしょうか?


(2)米価下落

報道によると米価が大きく下落しているそうです。

外食需要低迷が大きな理由とのことですが、代わりに自宅等での食事が増えるでしょうから、米需要全体が大きく減る理由にはならないのではないかと、ちょっと不思議に思っています。

ひょっとしたら、自宅でお米を食べる人は少ないのでしょうか。

それとも、外食産業では念の為にと多めに米飯を炊いて、余ったら廃棄しているのでしょうか。あるいは、米飯を出しても完食する人は少なくて、残った米飯は廃棄しているのでしょうか。その廃棄ロス分の需要が消えたことが、米価下落の原因なのでしょうか… 言い換えると、これまでは外食産業の廃棄ロスが米需要を嵩上げしていたのでしょうか…

(本当の理由は調べられてません…)


(3)食品ロス

下記の環境省農林水産省の共同推計によると、平成30年度(2018年度)の日本国内の食品ロスは約600万トンだったそうです。単純計算すると、一人あたりなんと年間約50kgです!(体重と比べてみましょう…)

内訳を見てみると、家庭約276万トン、事業者約324万トン。事業者の内訳は、外食産業約116万トン、食品小売業約66万トン、食品卸売業約16万トン、食品製造業約126万トンだそうです。外食産業による食品ロスは全体の約2割にすぎないようです(一人あたり年間約10kg)。

食品業界内では、食べ物が「規格内外」「機会損失」「廃棄ロス」の文脈で語られているようです。

人間にとって食べ物とはなんでしょうか?

※「食品ロス」は食べられるのに捨てたもの、「食品廃棄物等」は食べられる・食べられないに関わらず捨てたもの、だそうです。

下記は、行政による食品ロス関連サイトです。

ドロドロとハリボテとペルソナと

(1)心の傷と理想像

自己否定の心の強い人は、心に大きな傷を負っているのではないかと思います。無意識のうちにほんのちょっと刺激を受けただけで感情的になったり、時には我を忘れてしまったりするくらいに、心に大きな傷を負っているのではないかと思います。

そこで、心の大きな傷に無理矢理フタをして、代わりに自分の理想の姿を心の中に描いて、その理想像を演じようと頑張るのではないかと思います。心の傷が作った劣等感と正反対の姿を演じる人もいれば、劣等感を克服した姿を演じる人もいるのではないかと思います。

もちろん、最初は理想像を演じているだけで中身が伴っていません。しかし、劣等感を冷静に見つめることのできる人であれば、コツコツと努力を積み重ねて少しずつ理想像に近付いていけるのではないかと思います。ところが、劣等感を冷静に直視できない人は適切な努力ができず、中身を伴わないまま威勢だけで生きていくこととになると思います。心の傷が大きければ大きいほど、後者の傾向が強くなるのではないかと思います。

こんな風に、自己否定の心の強い人は、心の傷と理想像の二階建構造になっているのではないかと思います。(これは以前も書いたことがあるかもしれません)


(2)ドロドロとハリボテとペルソナ

世の中のほとんどの人は、心の中に様々な大きさの心の傷を負っているのではないかと思います。小さいものばかりという人もいれば、途方もなく大きな傷を負っている人もいるのではないかと思います。また、ほとんどの人は心の中に様々な大きさの欲望を持っているのではないかと思います。

心の傷と欲望が、心の中のどこかで多かれ少なかれドロドロと蠢いているのではないかと思います。そして、心の傷や欲望が刺激を受けると感情的になったり、時には我を忘れてしまったりするのではないかと思います。

心の中のドロドロは、様々な形で正常の思考を妨げているのではないかと思います。そのため、冷静に「思考」しているつもりでも、実際には情報のつまみ食いや論理の飛躍が頻繁に起きて、ドロドロの影響を受けた「想像」になっていることは多いのではないかと思います。ドロドロを織り込んでいるからこそ、事実よりも想像の方が「しっくりくる」のではないかと思います。その結果、事実関係とは異なる想像世界に生きている人は多いのではないかと思うことがあります。この想像世界のことを以下では仮にハリボテと呼びます。

心の中のドロドロの影響を受けて作られたハリボテは、心の傷を回避したり、欲望を取り込んだりしているぶん、事実とは異なります。新たな情報を突きつけられた結果、ハリボテが内部から崩壊しそうになると「不安」が生まれ、外部から破壊されそうになると「怒り」が湧き上がります。また、様々な人間関係を上手にこなすために、建前と本音があります。

さらに、ドロドロ感情とハリボテ世界の他に、人や場に合わせて適切な言動を取るためのペルソナ仮面も必要なようです。

したがって、多くの人の心の中は、ドロドロ(心の傷と欲望)と、ハリボテ(想像世界の本音と建前)と、ペルソナ(人と場に合わせた仮面)の三重構造になっているのではないかと思います。(結構複雑ですね…)


(3)純粋に好きなこと

しかし、純粋に好きな分野については、シンプルな構造になっているのではないかと思います。

おそらく、心の傷はほとんどありません。成功も失敗も、誉れも恥も、純粋に好きな分野を極めるための糧になることを知っているからです。純粋に好きな分野は、欲望ともほぼ無縁です。そのため、前述のドロドロがほとんどありません。

したがって、事実を純粋に見ることができます。良し悪しを純粋に論ずることができます。前述のハリボテもほぼ不要です(もちろん建前も本音もほぼ不要です)。

同じ分野を極めようとしている人どうしであれば、一般的な礼儀さえあれば、楽しく本気で会話できます。そのため、敢えてペルソナを使い分ける必要はありません。

したがって、純粋に好きな分野については、心の中にドロドロもハリボテもペルソナもほとんど必要なく、純粋に近い状態になっているのではないかと思います。そのため、身口意一致が実現しやすいのではないかと思います。「ワクワクすること」という言葉をよく聞きますが、もしも純粋に好きなことを指すのであれば、心の中がシンプルになる効果もあるように思います。


(4)文化の違い

古今東西、様々な文明が生まれ、様々な文化が生まれました。

文化圏によって大切に考えていることは異なると思います。多くの人が大切だと思っていることの周辺には、心の傷や欲望が生まれやすく、前述のドロドロが激しくなりやすいのではないかと思います。その結果、大袈裟なハリボテが生まれやすいのではないかと思います。ハリボテが大袈裟であればあるほど、怒りや不安の原因になりやすいのではないかと思います。

例えば、日本では親分子分関係が重視されているように思います。そのため、その周辺にドロドロとハリボテが発達しやすいのではないかと思います。上下関係を巡っては怒りや不安が発生しやすいため、権力闘争とも呼ばれるくらいに手段を選ばぬ戦いが起きやすいのではないかと思います。報道や小説やドラマでも、権力闘争は重要なテーマとなっているように思います。(勝敗を重視)

一方、欧米では正義が重視されているように思います。そのため、正義の周辺にドロドロとハリボテが発達しやすいのではないかと思います。正義を巡って怒りや不安が発生しやすいため、自分たちが考える正義を実現するためなら手段を選ばないのではないかと思います。報道や小説や映画でも、正義は重要なテーマとなっているように思います。(善悪を重視)


(5)アヒンサー

おそらく、自己否定の心がとても強い人についても、ドロドロとハリボテとペルソナで説明しなおすことができると思います。そうすると、自己否定の心の強さに関係なく、同じモデルで説明できるようになって私の中ではスッキリです。

仮に、あらゆる人の心の中を同じモデルを用いて語れるようになると、あらゆる人についてニュートラルな気持ちで語れるようになるかもしれません。あらゆる人について冷静に語れるようになると、アヒンサー(非暴力)に一歩近付けるのではないかと思います。

私はインドの伝統的な五戒のひとつであるアヒンサー(非暴力)を戒にしたいと思っています。人間の心の動きを分析することは、私にとってはアヒンサーに向けた重要な一歩です。道のりは遠いですが、少しでも近付ければと思っています。