法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

事実・推理・空想・感情(ある日のお返事より)

きっとみなさん、心に大きな苦しみを抱えてらっしゃるんじゃないかと思います。あまりに苦しくて、自分のことで精一杯になってるんじゃないかと思います。

周りの人のことを丁寧に観察する余力がなくなって、ちょっと見たり聞いたりした話を元に空想を大きく膨らませて、その空想(妄想)を元に周りの人に接している人が多いのではないかと思います。悲しいかな、空想(妄想)と事実の区別がつかないくらい、心に余裕がなくなっている人が多いのではないかと思います。

当然、空想(妄想)に基づく対人関係がうまくいくはずもなく、失敗を繰り返しては、ますます自分を責めて他人も責めて、苦悩を深めているのではないかと思います。そして苦悩を深めれば深めるほど心に余裕がなくなって、ますます苦しくなっているのではないかと思います。

そんな負のスパイラルから抜け出せなくなっている人が現代社会には多いのではないかと思います。あまりに苦悩にどっぷりと浸かっているので、自分が大きな苦悩を抱えていることに気付けないでいる人も多いかもしれません。

本来、頭の中だけで考えても前に進まないことは明らかなのに、それ以外の方法を知らなくて、いつまでもいつまでも頭の中だけで想像を膨らませて苦悩を深めている。そんな人が多いのではないかと思います。

そんな大きな大きな苦しみから抜け出してもらえたらどんなにすばらしいだろうと思います。


そんな空想(妄想)世界から抜け出すには、事実を冷静に見つめる練習が必要ではないかと思います。事実や推理と感情を切り離して、空想とも切り離して、ただ事実を見つめる。例えばノートを縦四列に分けて「事実」「推理」「空想」「感情」を別々に書き出してみる。事実に基づかない空想(妄想)があれば、事実をきちんと調べて書き込む。そして事実(と推理)だけを元に対策を考える。そんな練習を繰り返すと楽になるかもしれません。


「誰が正しいか?」という観点で世の中を見つめると、生きるのがとてもしんどくなると思います。「何が正しいか?」という観点が必要だと思います。日本人は前者の発想の人がものすごく多いように思います。欧米人は後者の発想が得意な人が多いように思います。(その点で日本人は不利だと思います)

裁判は「誰が正しいか?」を争う場ではないと思います。本来は、被告・原告・裁判官と役割分担して、それぞれの立場から事実を見極め、適切な対処を見つけ出すために議論する場だと思います。すなわち「何が正しいか?」を議論する場だと思います。だからこそ、どんなに極悪な人であっても、あるいはどんなに不利な訴えをしている人であっても、等しく弁護人がつくのだと思います。そして公正な裁判を受ける権利があるのだと思います。

議会も同様に「誰が正しいか?」を争う場ではないと思います。本来は、立法府と行政府に役割分担して、あるいは与党と野党に役割分担して、それぞれの立場から「何が正しいか?」を議論する場だと思います。

一人一人の意見や価値観の裏側には理由があるはずです。その理由をテーブルに並べて「何が正しいか?」を公正に議論して、その時々の最適解を見つけていくことはとても重要なことだと思います。(だからこそ、公正な議論の場を破壊する行為は重大なルール違反だと思います)

本来の裁判や議会で行われるべき冷静な議論を、一人一人が日常的に行うことができれば、一人一人が生きるのが随分楽になると思いますし、世の中も随分と明るくなるのではないかと思います。

(残念ながら、本来の裁判や議会や行政で行われるべきことが現状では十分には行われていないように思いますが、それは別の議論になるのでここでは置いておきます)


ですから本来は第三者にジャッジしてもらうのではなくて、一人一人が議論に参加してみんなで適切な結論を見つけることが重要だと思います。実際に裁判や議会で討論に参加するのは代表者だけだとしても、代表者の後ろには一人一人がどっしりと控えている。そして直接間接に議論に参加している。それが本来の民主主義だと思います。そこを壊してしまうと現代社会が成り立たないと思います。(れいわ新選組山本太郎さんが高い人気を誇る理由のひとつは、ここを大切にしているからではないかと思います)

その根本を崩してはいけないと思います。

十人十色だからこそ、腹を割って話し合うこと、丁寧に観察しあって的確に気付きあうことが重要なんだと思います。お互いの許容量を超えた人どうしをつなぐことも重要なんだと思います。仮に十人十色だからと自分と異なる意見の人を否認し合うとしたら、それは方向性としては逆だと思います。


いつの間にか長文になってしまってました。すみません。