法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

人間の精進の範囲では「身口意一致」は不可能かもしれない

仏教には「身口意一致」という言葉があるそうです。『身(行動)』と『口(言葉)』と『意(意識)』を一致させることだそうです。

「身口意一致」に到るためには、己の現状を正確に識ることは根本的に重要なことだと思います。すなわち、「いま、身口意はどのくらい一致しているのか、逆にどのくらい一致してないのか」を正確に識ることです。

ところが、実はこれは大変難しいことだと思います。ほとんどの人にとって、思い込みと事実を正確に区別することは甚だ難しいことだからです。自分では「○○なつもり」であっても、果たして本当にそうなのか。潜在意識が無意識に働いて、都合の悪い事実にフタをして自分自身からは見えなくしているだけではないのか。傍目には全然違って見えているのではないのか。とは言え、果たして身の周りの誰の目が実態を正確に把握してくれているのか、それを判定することすらも難しいのではないのか。仮に正確に把握してくれている人がいたとして、その人の言葉を拒否することなく正確に受け取ることができるだろうか…

そんなことを考えていると、「身口意一致」の度合いを正確に識ることができるのは、神仏くらいではないのか。人間の精進の範囲だけでは「身口意一致」の実現に向けて一歩一歩近付いていくのは不可能ではないのか。そもそも人間の浅知恵では明後日の方向に進んでいくだけで精一杯ではないのか。そんな気さえしてまいります。

一般論としては「ちゃんとできてる」と思っている人ほど、見る目が甘くなって「まったくできてない」状態に陥りがちだと思います。逆に「まったくできてない」と認識できている人ほど、見る目をどんどんと磨いている可能性がある一方で、やっぱり明後日の方向に向かってまっしぐらに突き進んでいる可能性も捨て切れません。まさに暗中模索だと思います。

不可能であればあるほど萌えてしまう私としては、たとえ何劫かかったとしても「身口意一致」を目指したいなと思ってしまいました。なんちゃって、思うだけなら私などでもできるのでありました。