法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

アキレスと亀

ゼノンの「アキレスと亀」、子供の頃から繰り返し聞くテーマです。

しかし、哲学的、数学的な議論に参加するつもりはなかったので、世間でどのような議論がなされているのかについては、ほとんど知りません…

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ただ20歳過ぎの頃から、勝手解釈をしてこんな風なことを言ってました。

「アキレスはカメを目標とする限りは、決してカメに追いつくことはできない。」

「アキレスが本来の能力を発揮するためには、アキレス独自の目標を持たねばならない。」

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もちろん、これは比喩です。

どんなに能力の高い人でも、他の誰かを目標としている限りは、決してその人を追い抜くことはできません。本来の能力を発揮するためには、自分自身のモノサシにしたがって独自の目標を設定し、自分自身のモノサシにしたがって独自に行動していくしかないと思います。

その際、自分自身のモノサシに賛同してくれる人数の多寡は問題ではないと思います。若いうちから高く評価される人もいれば、年を取ってから「大器晩成」などと言われる人もいます。亡くなられてから高く評価される人もいます。逆に素晴らしい働きをしているのに世間から忘れ去られている人もたくさんいると思います。ですから、他人の評価なんてどうでもよいと思います。

大切なのは、自分自身のモノサシを磨き続けること、そしてそのモノサシにしたがって行動し続けることだと思います。

それさえできていれば、アキレスでなくても素晴らしい成果を出すことができると思います。そして、どんな偉大なカメに対しても臆することがなくなると思います。


ところで、ゼノンの「アキレスとカメ」でも、アキレスがカメを目標にするのではなく、カメが目標としているところをアキレスも目標に据えたとしたら、話が違ってくると思います。アキレスの方が足が速いので、カメの目標としているところにアキレスの方が先に到着すると思います。

ただし、はたしてそれはアキレスにとって嬉しいことなのか?というと、わかりません。カメが100m先を目標としているからと言って、アキレスも100m先を目標にして楽しいのか?もちろん100m走はとても奥深い競技ではありますが、ひょっとしたらアキレスは100km先を目標にした方が喜びが大きいかもしれません。

アキレスは100km先を懸命に目指し、カメは100m先を懸命に目指す。一人一人が自分自身が決めた目標を目指して一所懸命に走る方が、お互いに本来の力を発揮できて楽しいのではないかと思います。

例えば、、アキレスは100kmもの長距離を走る間に、見聞を大いに広めることができることと思います。一方、カメは100mの短距離を歩む間に、思索を大いに深めることができることと思います。どちらが優れているかではなくて、生き方の違いだと思います。

哲学者・西田幾多郎は歩いて思索を深めたそうです。もしも哲学の道を散策する代わりにグラウンドを走り回っていたとしたら…、まったく違った西田哲学が生まれていたかもしれません。カメの哲学とアキレスの哲学がまったく違うように…


話は大きく変わって、、

AI (人工知能)は、正誤判定が可能な目標に対して、試行錯誤しながら精度を高めていくことを得意としていると思います。現代においては人件費と比較すると AI の導入は容易になってきていると思います。したがって、正誤判定が可能な目標に対しては、人間よりも AI の方が優れた能力を示すようになっていくと思います。そのような分野は、これからどんどん広がっていくと思います。

人間と AI が競い合う。これは譬えるなら、アキレスとカメが目標を同じくしている場合と同じだと思います。はたしてそのような状況は、人間にとって嬉しいものなのか?AIにとって嬉しいことなのか?というと、よくわかりません。はたして正誤判定可能な分野はそんなに多いのか?というと、それもよくわかりません。

ただなんとなくですが、現代日本では、正解がはっきりわかるようなことが好まれているのではないかという気がしています。どこかの誰かが決めた枠内に収まることをよしとする風潮があるのではないかという気がしています。見せかけの権威に従う生き方が奨励されているかのようです。そのため日本では広告や広報が幅を利かし、結果としてどこに行っても似たようなお店が並び、似たような家が並び、似たような服装がはやるのではないかと思います。そのような行動・思考・嗜好のパターンが読みやすい社会では、人間は AI にはかなわないと思います。人間でないとできないことはどんどん減っていくと思います。

そうではなくて、一人一人が自分自身の独自のモノサシで行動することが好まれる社会となれば、事態は大きく変わってくると思います。誰がどんな行動をするのか、揺れ幅が大きすぎて、広告や広報の影響力も読めなくて、AI でも十分には結果を絞り込めなくなるのではないかと思います。AI を適用できる分野が限定的になれば、人間が活躍する場が大きく広がると思います。想定外の企画を打ち出せる人、また会いたくなる人、物事を極められる人、そんな人たちの活躍の場が広がっていくと思います。

さらに、一人一人が思考よりも直観を重視するようになると、AI を適用できる分野はさらに限定的になるのではないかと思います。

言い換えるなら、人間が萎縮すればするほど心が機械的になり、AI にかなわない分野がどんどん広がっていくと思います。逆に人間が本心を開放すればするほど、そして真価を発揮すればするほど、心が自由闊達となり、AI の入り込む余地はどんどん減っていくと思います。

アキレスの生き方とカメの生き方がまったく違うように、人間の生き方と AI の活かし方は本来はまったく違うものだと思います。それぞれの長所を活かしあう社会になるとよいなと思います。

以上、とても楽観的な予測でした。


おまけですが、人生を楽しめるのは人間の特権だと思います。

AI にできることは「人間が楽しみそうだ」という予測だけで、AI 自身は楽しむ能力を持ち合わせていないと思います。AI は評論家になることはできても、当事者にはなれないと思います。かわいそうですが…