法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

善人と悪人

おそらくほとんどの人は、こんな風に思っているのではないかと思います。

「自分はよいことをしている。中にはあまりよくないこともあるけど、自分にはそれをする権利がある。」

ここで「よい」の判断基準が曲者だと思います。人によって大きく異なるからです。傍目にはどんなに変に見えたとしても、その人は上述のように思っているのではないかと思います。


しかし中には、本当に傍迷惑な人もいらっしゃるように思います。

例えば、事実関係を自分に都合がよいように空想して、自分勝手なモノサシで判断して、都合の悪い声には一切耳を貸さない人がいるとします。そのような人は自信たっぷりに「自分はよいことをしている、だから協力してくれ」と触れ回ることができます。

その言葉を裏取りすることなく信じてしまう人が大勢いると、とんでもないことが起きてしまいます。誰かの人生が粉々に破壊れさて、そのトバッチリを受けてたくさんの人が困り果てて、妄想を触れ回った人だけが得をする。それに誰も疑問をはさまないどころか、当然の結果だとみんなが思ってしまう。そんな悲劇が起きかねません。

「よい」ことをしていると盲信できる人は、相手が困り果てて中止を懇願しても聞く耳を持ちません。それどころか、「遠慮してるんだろう」「自信をなくしてるんだろう」と決めつけて、激しい「怒り」の感情が湧き上がってきて、怒鳴ったり、騙したり、暴れたりして、ますます強力に推進しようとします。まったく手加減がありません。


それに対して、「わるい」ことをしているという自覚のある人は、手加減をするのではないかと思います。継続的に「わるい」ことをするためには、生かさず殺さず、証拠を残さず、通報されず、を目標とすると思うからです。

ですから、「よい」ことをしていると思い込んでいる人ほど恐ろしい人はいないと思います。凝り固まった「善意」ほど恐ろしいものはないと思います。「わるい」ことをしているという自覚のある人の方が、まだ対処しやすいんじゃないかな…

道路網と人々の暮らし

だいぶん前に聞いた話です。同じような話を時々聞くので、ひとつにまとめて架空の地域の架空のお話にしてみました。

(1)道を開く

もう何十年も昔のこと、あるところにアル村(A村)と呼ばれるムラがありました。食べ物はある程度自給できたので、足りないものだけをムラのお店で買ってました。

あるとき、隣のビックリ町(B町)との間に自動車が通れる道が開通しました。アル村の人たちから見ると、ビックリ町は驚くほどの都会で、お店に行けばなんでも手に入りました。人々は便利さを求めて、時々ビックリ町まで買い物に出かけるようになりました。

やがて、ビックリ町とシティ市(C市)をつなぐ道路が整備されて、往来が簡単になりました。ビックリ町の人たちはシティ市に買い物に出かけるようになり、ビックリ町の商店街は次第にさびれていきました。仕方がないので、アル村の人たちもシティ市まで買い物に出かけるようになりました。

さらに、シティ市とデッカイ市(D市)を結ぶトンネルが完成して、往来が簡単になりました。シティ市の人たちはデッカイ市に買い物に出かけるようになり、やがてシティ市の商店街は次第にさびれていきました。仕方がないので、ビックリ町の人たちも、デッカイ市に買い物に出かけるようになりました。アル村の人たちも、頑張ってデッカイ市まで買い物に出かけるようになりました。

(2)道を進む

デッカイ市が広い商圏の中心地になったので、アル村の若者たちも、ビックリ町の若者たちも、シティ市の若者たちも、デッカイ市で働くようにになりました。通勤や暮らしの便を考えて、若者たちの多くはデッカイ市で生活を営むようになりました。そしてデッカイ市から離れるほど、若者の姿が見られなくなっていきました。

(3)道に迷う

時が経ち、みんな歳を重ねていきました。若者たちも、その子どもたちも、デッカイ市での暮らしに馴染んでしまって、故郷に帰るつもりはありません。ところが親世代は足腰が弱って、判断力も弱って、デッカイ市まで買い物に出かけることが辛くなってしまいました。しかし時代は変わって、買い物ができないと暮らしが成り立たなくなっています。

はてさて、アル村や、ビックリ町や、シティ市の人たちは、これからどうやって暮らしていけばよいのでしょう… いつの間にか、空き家が少しずつ目立つようになってきました…

(4)道はどこへ

便利な暮らしを求めたつもりが、そして素晴らしい未来を切り開いたつもりが、どこかで間違って、天に向かって唾を吐いてしまったのでしょうか… それとも、どこかの誰かに、知らないうちに大切な何かをかすめ取られてしまったのでしょうか… あるいは、秘された明るい未来が待っているのでしょうか…

らしさを求める vs. ファクトを求める

(1)いろはかるた

いろは47文字からなる「いろはかるた」は、江戸・京都・尾張で読札のことわざが異なるそうです。

例えば『い』は、江戸では「犬も歩けば棒に当たる」、京都では「一寸先は闇」、尾張では「一を聞いて十を知る」だそうです。好まれることわざに地域性があるのかもしれません。

(2)一を聞いて十を知る

このうちの「一を聞いて十を知る」は儒教由来の言葉のようです(出典は論語三巻公冶長第五)。本来は、わずかな情報から深い深い理解を得ることができる人、すなわち知識も経験も並外れて豊富で、観察力も理解力も感性も優れた人を賞賛する言葉ではないかと思います。

ところが日本では、知識も経験も浅い人が「一を聞いて十を知る」を試みる例が多々みられるように思います。そして、いかにももっともらしいストーリーを即座に作って、自信たっぷりに語ることのできる人が、賞賛されるように思います。

その際、ストーリーの正確性が厳密に問われることはありません。ですから、一種の「話芸」と考えることができるように思います。「大喜利」は笑いを取ることが大切ですが、「一を聞いて十を知る」ゴッコは納得感やスッキリ感が大切にされるように思います。

(3)事実は小説より奇なり

「いろはかるた」にはありませんが、「事実は小説より奇なり」という有名なことわざがあります

丁寧に探求すると、意外な事実が判明するのはよくあることだと思います。ですから、いかにももっともらしいストーリーばかり追いかけていては、真実を見失ってしまうと思います。

(4)らしさ

もしかしたら、日本では「らしさ」が大切なのかもしれません。

もっとも「らしい」ストーリーは高く評価される一方で、そのストーリーから外れて事実を探求することは「奇をてらう」行為として低く評価されるのかもしれません。

もしかしたら、、「想像力を働かせる」人たちと「事実を探求する」人たちは、求めているものが違うのかもしれません。隣り合わせで暮らしていても、違う世界を生きているのかもしれません。そのため話が噛み合わないのかもしれません。

想像力を働かせるより、真実を探求する方が楽しい

(1)感情はセンサー

なぜだか私は感情の動きを観察するのが好きで、これまで体験したことを反芻しては、自分の感情の動きを思い出したり、周りの人の様子を思い出したりしながら、あれこれ分析して楽しんでいます。

いつの頃からか、感情はセンサーではないかと思うようになりました。顕在意識から潜在意識を直接観察することはできませんが、感情の動きをセンサーとして活用すれば、潜在意識の様子を少しばかり覗き見ることができるのではないかしら…と期待しています。

夢日記ほどパワフルではないかもしれませんが、顕在意識を活動させたまま観察できるので、私には楽チンです。


(2)怒りの原因

ここ数日、「怒り」の感情についてこれまで分析して得た仮説を、少しずつ思い出しながら書いてみました。あくまで仮説ですので、年月とともに修正したり、取り下げたり、追加したりする可能性があります。

ひとつめの仮説は、相手の中に自分の嫌いなところを見たときに「怒り」の感情が起きるのではないか、というものでした。しかし、潜在意識も自分の嫌いなところを直視したくないので、まったく別の理由をでっち上げて、「○○だから腹が立つ!」という形で顕在意識に上がってくるように思います。ですから「○○」を見つめても本当の「怒り」の原因はわからないと思います。

ふたつめの仮説は、「自分は正しい」という「思い」が否定されたときに「怒り」の感情が起きるのではないか、というものでした。例えば、「自分の知識・予想・言動・夢は正しい」などです。その「思い」に対する執着が強ければ強いほど、「怒り」も激しくなるように思います。言い換えると、自己否定の強い人が、「自分は正しい」と思うことで心のバランスを取っているときに、そのバランスを崩されたが故に「怒り」の感情が起きた、と見ることができると思います。

どちらの仮説も、自己否定が強ければ強いほど、「怒り」の感情が激しくなるという点では似ているように思います。


(3)妄想に執着

また、上記ふたつめの仮説については、未知の状況に遭遇したときに「想像力を働かせる」ことを得意とする人に、特に顕著に見られる現象のように思います。

「自分は正しい」と強く思いたい人は、「自分の想像は正しい」と強く信じて、それ以上考えるのをやめてしまうのかもしれません。その結果、間違いだらけの想像に執着して、間違いの可能性を示唆されるたびに「怒り」の感情が激しく起きてしまうのではないかと思います。

面白いもので、日本ではこのような人は「信念の人」と誤解されることがあるように思います。そして、「この人の言うことは信頼できる」と高く評価されることがあるように思います。そればかりか、不思議と出世コースに乗ってしまうこともあるようにも思います。


(4)空中楼閣

なぜ出世コースに乗ってしまうのか、十分に分析できてないので弱い仮説ではありますが、ちょっと書いてみます。

もしかしたら、何か疑問が起きるたびに「想像力を働かせる」ことで解決を試みる人は、日本では多数派なのかもしれません。彼らにとっては、いかにももっともらしいストーリーを作って、自信たっぷりに語ることのできる人は、ヒーローなのかもしれません。そして「この人は頭がいい」と評価してしまうのかもしれません。

彼らにとっては「想像力を働かせる」ことが重要なので、ストーリーが正しいかどうかには、あまり興味がありません。そのため検証を必要としません。それどころか、そのストーリーを否定する証拠が出てくると、証拠の方が間違っていると思ってしまうのではないかと思います。逆に、そのストーリーを補強する噂話があれば、その噂話は真実だと思ってしまうのではないかと思います。

そう言う人たちが多数派になってしまったのが、いまの日本ではないかと思います。

※極端な例としてはネトウヨが挙げられると思いますが、もう少しソフトな例は至る所で見ることができるのではないかと思います。


(5)探求者を増やす

昨日、未知の状況に遭遇したときの対処方法の見つけ方には、「1. 教えてもらう」、「2. 想像力を働かせる」、「3. 探求する(仮説→検証→考察を繰り返す)」の3通りがあると書きました。

日本の現状は、「2. 想像力を働かせる」人たちに勢いがあって、「1. 教えてもらう」人たちが従順に従って、「3. 探求する(仮説→検証→考察を繰り返す)」人たちが居場所を見失っている状況ではないかと思います。

こんな風に思っているので、いまの日本に必要なのは「探求する(仮説→検証→考察を繰り返す)」ことを得意とする人を増やすことではないかと思います。事実に基づく議論が噛み合う人数を増やさないと、日本は迷走するばかりで、ますます衰退していくのは避けられないと思います。

怒ってばかりの人は想像力を働かせるのが得意な人ではないか

(1)未知との遭遇

未知の状況に遭遇したときの対処方法の見つけ方には、大きく分けて3通りあるように思います。

  1. 教えてもらう
  2. 想像力を働かせる
  3. 探求する(仮説→検証→考察を繰り返す)

この3つは状況に応じて使い分けているように思います。ただし、人によって使い分け方は大きく異なっているように思います。そして、それぞれの人が一番得意とする方法を多用する傾向があるように思います。


(2)怒りの感情

上記3つの過程で、どのような場合に「怒り」の感情が発生するかを考えてみます。

  1. 教えてもらう場合に「怒り」の感情が発生するのは、教えてもらったことが間違っていたときだと思います。「この人なら間違いないと思っていたのに、プンプン」という「怒り」ではないかと思います。すなわち、「私は正しい人を選んだ」「私の見立ては正しい」という「思い」が否定されたため、「怒り」の感情が発生したのではないかと思います。

  2. 想像力を働かせる場合に「怒り」の感情が発生するのは、想像したことの間違いを指摘されたときではないかと思います。「私の想像は正しい」という「思い」が否定されたため、「怒り」の感情が発生したのではないかと思います。「そんなことはない、私は正しいんだ」という気持ちが強ければ強いほど、「怒り」の感情が増幅されるように思います。

  3. 探求する(仮説→検証→考察を繰り返す)場合に「怒り」の感情が発生するとしたら、強い執着心のこもった仮説が間違っていたときではないかと思います。「私の仮説は正しい」という「思い」が否定されたため、「怒り」の感情が発生したのではないかと思います。(ただし、経験的には、探求する過程で「怒り」が発生することはほとんどないと思います。)

いずれの場合も、「私の○○は正しい」という「思い」が否定されたときに、「怒り」の感情が発生するのではないかと思います。


(3)想像は仮説

上記3つの中でも、「2. 想像力を働かせる」場合に、「怒り」の感情が一番発生しやすいように思います。もっと言えば、「怒り」の感情が発生するのは「2. 想像力を働かせる」場合がほとんどだ、と言ってもよいくらいではないかと思います。さらに踏み込んで言えば、怒ってばかりの人は「2. 想像力を働かせる」を得意としているのではないか、と思うこともあります。

想像力を働かせること自体が問題なのではなくて、想像した内容に執着して「私の想像は正しい」と思い込んでしまうところに問題があるのではないかと思います。想像した段階では単なる「仮説」だと思います。1個目の仮説はハズれている可能性が高いと思います。本来なら、仮説→検証→考察を繰り返して、精度を高めていく必要があると思います。

例えば「なんでそんな言動を取るんだ!」と「怒り」の感情が出てくる段階では、相手の動機を正確には理解できてないのではないかと思います。観察や対話を繰り返すうちに、やがて相手の見ている世界と、こちらが見ている世界が全然違うことが明らかになってくるのではないかと思います。違いがはっきり見えるようになると、対策を立てやすくなるのではないかと思います。見ている世界がまったく違うのであれば、「怒り」を表明するだけでは、おそらく相手の心には届かないと思います。


(4)自己否定を消す

では具体的にどうすればよいか、というのは今の段階ではわかりません。

おそらく、多くの人の潜在意識の奥底には自己否定の気持ちが隠れていると思います。それが顕在意識に浮かび上がるうちに大きく形を変えて、憂鬱になったり、傲慢になったり、貪欲になったり、憤怒になったり、などなどして、人と人との間で化学反応がおきて、摩訶不思議な事象があちこちで発生してしまうのではないかと思います。

したがって、人々の心から自己否定の気持ちを消してしまわないと、これからも様々な問題が起き続けるのではないかと思います。しかしそれは、世界宗教創始者をもってしても、古今東西のたくさんの偉人をもってしても、未だ実現できてないことです。ですから簡単なことではないと思います。

しかし私は、ひとつひとつの社会問題よりも、そういう方向に興味が移ってしまいました。社会問題を見るときの目も、そういう方向からです。世間からはアサッテさんに見えていることと思います(笑)

見えない境界線

(1)怒りを露わにするとき

人間の感情はとても興味深いです。感情の動きを観察するのも、感情を露わにする場面を観察するのも面白いです。

例えば「怒り」の感情を露わにするのはどんな時かを思い出してみます。

  1. 自分の正当性を強調したいとき。
    「自分は正しくて、あいつは悪いやつだ」という主張を相手に信じてもらいたいときに、強い「怒り」の感情を露わにすることが多いように思います。

  2. 自分の言うことを実行して欲しいとき。
    この場合は命令口調になることが多いように思います。その裏には、「自分の言う通りにするのが正しい」という主張があるように思います。

  3. 相手を威嚇して、自分の思い通りにことを運びたいとき。
    自分の正当性を主張できないことがわかった上で、相手に「こいつは何をするかわからない」という恐怖心を抱かせて、判断を狂わせようとしているのではないかと思います。(いわゆる脅迫です)

いずれにしても、「怒り」の感情を露わにするのは、自分の思い通りにことを運ぶことが大きな目的ではないかと思います。また、特に1番目については、同じような状況で「怒り」を感じる人たちに、一種の「連帯感」を抱いてもらうという目的もあるかもしません。(なお、これは潜在意識から見た場合の話で、顕在意識では何かもっともらしい目的を掲げていることと思います)


(2)本当に辛い体験をした場合

人が本当に辛い体験をした時は、簡単には人に言えないものだと思います。思い出すだけでも辛いのに、それを言葉にするなんて、そう簡単にできることではないと思います。仮に「さわり」を語り始めることができたとしても、核心部分が近付くにつれ、口が重くなってしまうのではないかと思います。

そのような場合には、聞き手には、「怒り」の感情ではなく、「苦しみ」や「悲しみ」の感情が伝わるのではないかと思います。聞き手によっては、自信なさげに語っているように見えて、「信用できない」と判断する人もいるかもしれません。

心に大きな傷を負ってしまった方々が、「怒り」の気持ちを言葉で表現できるようになるまでには、長い年月が必要なことが多いのではないかと思います。もしかしたら、一生言葉にできないまま終わる人の方が、多いかもしれません。


(3)妄想世界に執着している場合

その一方で、自分が思い描いた妄想世界を壊されたくないという気持ちから、激しい「怒り」の感情を露わにする場合があります。自分の思い込みや希望に激しい執着心を抱いている場合です。

このような場合には、人は雄弁になるように思います。激しい「怒り」の感情とともに、「自分は正しくて、あいつは悪いやつだ」と「事実関係」を詳細に語られると、聞き手はついつい信じたくなってしまうかもしれません。

しかしそう言うときこそ冷静になって、本当の事実関係をきちんと調べる必要があると思います。例えば、一方が口をつぐみ、もう一方が雄弁に語るとき、果たして真実はどこにあるのか…


(4)見えない境界線

私の経験では、簡単に他人のことを悪く言える人の話は、裏取りすると事実とまったく異なることがよくあります。口をつぐむ人は、言葉の行間が読めるような関係にならないと、本当のことはなかなか伝わってこないように思います。

ところが、簡単に他人のことを悪く言える人の言うことを信じて、口をつぐんでいる人たちを責める人の方が、ずっと多いのではないかという印象を持っています。(勘違いでしたら誠に申し訳ありません)

どちらの言うことに重みを感じるか。その感じ方で、人と人の間に見えない境界線が引かれているように思います。境界線のあちらかこちらかで、世の中の見え方が全然違っているのではないかと思います。その結果、話がまったく噛み合わなくて、仲の良かった人どうしが疎遠になってしまうことがあるくらいに、時には人生が大きく変わってしまうことがあるくらいに、大きな影響のある境界線だと思います。

私は、口をつぐむ人の声なき声が聞こえる人になりたいと思っています。とても難しいことですが…

専門用語は特殊

今夜はとある分野の入門書を斜め読みしました。未知の分野なので入門書ですら難しくて、まずは全体像をなんとなく把握するために、パラパラと眺めました。聞いたことのある用語はあちこちに出てくるものの、正確な意味を確認するのは後回しにしました。という訳で、もう1回読もうと思います。

専門用語は、仮に日常用語と同じ単語であったとしても、日常用語とはまったく異なる特殊な意味を持っていることが多いように思います。素人が勝手判断で類推すると、大きな誤解を招く可能性があるので、気をつけて読みたいと思います。