法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

見えない境界線

(1)怒りを露わにするとき

人間の感情はとても興味深いです。感情の動きを観察するのも、感情を露わにする場面を観察するのも面白いです。

例えば「怒り」の感情を露わにするのはどんな時かを思い出してみます。

  1. 自分の正当性を強調したいとき。
    「自分は正しくて、あいつは悪いやつだ」という主張を相手に信じてもらいたいときに、強い「怒り」の感情を露わにすることが多いように思います。

  2. 自分の言うことを実行して欲しいとき。
    この場合は命令口調になることが多いように思います。その裏には、「自分の言う通りにするのが正しい」という主張があるように思います。

  3. 相手を威嚇して、自分の思い通りにことを運びたいとき。
    自分の正当性を主張できないことがわかった上で、相手に「こいつは何をするかわからない」という恐怖心を抱かせて、判断を狂わせようとしているのではないかと思います。(いわゆる脅迫です)

いずれにしても、「怒り」の感情を露わにするのは、自分の思い通りにことを運ぶことが大きな目的ではないかと思います。また、特に1番目については、同じような状況で「怒り」を感じる人たちに、一種の「連帯感」を抱いてもらうという目的もあるかもしません。(なお、これは潜在意識から見た場合の話で、顕在意識では何かもっともらしい目的を掲げていることと思います)


(2)本当に辛い体験をした場合

人が本当に辛い体験をした時は、簡単には人に言えないものだと思います。思い出すだけでも辛いのに、それを言葉にするなんて、そう簡単にできることではないと思います。仮に「さわり」を語り始めることができたとしても、核心部分が近付くにつれ、口が重くなってしまうのではないかと思います。

そのような場合には、聞き手には、「怒り」の感情ではなく、「苦しみ」や「悲しみ」の感情が伝わるのではないかと思います。聞き手によっては、自信なさげに語っているように見えて、「信用できない」と判断する人もいるかもしれません。

心に大きな傷を負ってしまった方々が、「怒り」の気持ちを言葉で表現できるようになるまでには、長い年月が必要なことが多いのではないかと思います。もしかしたら、一生言葉にできないまま終わる人の方が、多いかもしれません。


(3)妄想世界に執着している場合

その一方で、自分が思い描いた妄想世界を壊されたくないという気持ちから、激しい「怒り」の感情を露わにする場合があります。自分の思い込みや希望に激しい執着心を抱いている場合です。

このような場合には、人は雄弁になるように思います。激しい「怒り」の感情とともに、「自分は正しくて、あいつは悪いやつだ」と「事実関係」を詳細に語られると、聞き手はついつい信じたくなってしまうかもしれません。

しかしそう言うときこそ冷静になって、本当の事実関係をきちんと調べる必要があると思います。例えば、一方が口をつぐみ、もう一方が雄弁に語るとき、果たして真実はどこにあるのか…


(4)見えない境界線

私の経験では、簡単に他人のことを悪く言える人の話は、裏取りすると事実とまったく異なることがよくあります。口をつぐむ人は、言葉の行間が読めるような関係にならないと、本当のことはなかなか伝わってこないように思います。

ところが、簡単に他人のことを悪く言える人の言うことを信じて、口をつぐんでいる人たちを責める人の方が、ずっと多いのではないかという印象を持っています。(勘違いでしたら誠に申し訳ありません)

どちらの言うことに重みを感じるか。その感じ方で、人と人の間に見えない境界線が引かれているように思います。境界線のあちらかこちらかで、世の中の見え方が全然違っているのではないかと思います。その結果、話がまったく噛み合わなくて、仲の良かった人どうしが疎遠になってしまうことがあるくらいに、時には人生が大きく変わってしまうことがあるくらいに、大きな影響のある境界線だと思います。

私は、口をつぐむ人の声なき声が聞こえる人になりたいと思っています。とても難しいことですが…