法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

この世で体験することは自分自身の鏡

この世で体験することは自分自身の鏡ではないかと思うことがあります。

一人一人の中には素晴らしい側面もあれば、どうしようもない側面もあると思います。そのためこの世では、素晴らしい体験もすれば、辛い体験もするのではないかと思います。ひとつひとつの体験をじっくりと観察すると、自分自身の様々な側面が嫌と言うほどはっきりと見えてくるのではないかと思います。

また、ひとつひとつの体験をどう感じるかは、自分自身の心次第だと思います。そのためこの世では、素晴らしい出来事は実際以上に素晴らしく感じて舞い上がったり、辛い出来事は実際以上に辛く感じて落ち込んでしまったりすることがよくあるのではないかと思います。

ひとつひとつの体験は自分自身の鏡であり、その体験の感じ方も自分自身の鏡であるとすれば、この世は自分自身を観察するための高性能ルーペとして働いているのかもしれません。妄想ですらも自分自身を観察するための高性能ルーペとして働いているのかもしれません。

もしもそうだとすると、心を閉じたり引き籠ったりすることは、自分自身の鏡を拒否することにつながるのかな…。喩えるなら天照大御神が岩戸隠れするようなもので、いずれは天岩戸開きが必要になるのかな…。それも、無理矢理ではなく、無為自然自然法爾な天岩戸開きが…

そう考えると、引き籠りは魂の「さなぎ」状態なのかもしれません。やがて完全変態して魂の「成虫」になる日を自分でも楽しみにしておきます。