仏教用語の『苦』の意味するところは「思い通りにならないこと」だと聞いたことがあります。
四苦八苦は、生・老・病・死の四苦に、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えた八苦を指す言葉ですが、いずれも「思い通りにならないこと」ばかりです。
そうすると、四聖諦は次のような意味になると思います。
- 苦諦: 一切皆苦=ありとあらゆる物事は思い通りにならない。
- 集諦: 『苦』には原因がある。
- 滅諦: 『苦』の原因を滅すれば『苦』は滅する。
- 道諦: 『苦』を滅する方法(修行体系)が存在する。
『苦』の原因は煩悩であり、その根本原因は無明だそうです。
無明とは真理に暗いことだそうです。道元禅師が「仏道をならうというは自己をならうなり」と書いておられるように、無明とは根本的には己の真の姿を知らないことではないかと思います。
おそらく、、己の真の姿を知ると、すべての命は繋がっていて全体で一つであり、すべての存在も繋がっていて全体で一つであり、己の真の姿=大宇宙の真の姿、という結論に至るのではないかと思います。諸法無我とはそういう意味ではなかろうかと思います。
従って、、己の真の姿を知ると、自己中心的な欲望・煩悩は消え去り、意識はどんどん広がって、その結果「思い通りにならないこと」も消えていくのではないかと思います。そして、思うこと=起きること、という世界に生きることになるのではないかと思います。すなわち、すべての命・すべての存在と無意識のうちに阿吽の呼吸で助け合うようになり、縁起の法則に従いながらも、ご縁が絶妙に働いて聖者のように自由自在に生きていけるようになるのではないかと思います。
このように「思うこと」と「起きること」の差が取れた人のことを「さとった(悟った)」人というのではないかと思います。
このように考えると、仏陀が説かれた四法印「一切皆苦」「諸法無我」「諸行無常」「涅槃寂静」も、さらには道元禅師が正法眼蔵「現成公案」で書かれた下記の文章も、同じことを別の視点から表現しているのではなかろうかと思えてきます。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
最近こんな風に思っています。ちょっと変な人かもしれません(笑)
追記。道元禅師の有名な文章において、「仏道をならふ」=「仏道の根本を知る」、「自己をならふ」=「己の真の姿を知る」、「自己をわするる」=「諸法無我を悟る」、「万法に証せらるる」=「すべての存在から悟りを認められる」、「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる」=「すべての存在と調和して委(ゆだ)ねあう」と解釈しています。