法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

手塚治虫(著)「火の鳥」

ここ1週間ほどかけて、手塚治虫の「火の鳥」(朝日新聞出版、全12巻)を読みました。第1巻〜第11巻は1967年〜1988年(39歳〜59歳)の作品、別冊のみ1954年〜1957年(25歳〜29歳)の作品だそうです。

全篇を通して、殺し殺され、奪い奪われ、壊し壊され、騙し騙され… まったく理不尽に、なんのためらいもなく… 主役級からエキストラまでも…

そのたびに心の奥底の方で大変なショックを受けて、何度も呆然となってしまってました。

その状態からなかなか抜け出せず、心の中に嵐が吹き荒れています。

気持ちが落ち着かないので、夜のリハビリ作文のテーマを考えることができない日が続いています。


心の中が荒れるとき、そのきっかけとなったショックよりも、そのショックに寄って呼び起こされた古い古い記憶の方が、遥かに苦しいように思います。

ショックが続くと、たくさんの古い記憶が呼び起こされて、みんな一緒になって心の中を暴れまわります。めまぐるしすぎて、何が何やらわからなくなって、ただ苦しさだけを感じるしかなくなっています。

きっと潜在意識の中では、大きな大きな化学反応が起きていて、やがてガラガラポンとばかりに何かが生まれるのではないかと思います。それまでは、なにやらへんな状態が続きそうです。


顕在意識でできることと言えば、座禅をしたり、念仏を唱えたり… まったく非力です。

「非力だとわかっている人は幸いなり。天国は彼らのものである。」

そんな風に思っているので、苦しいながらも安心して過ごしています。

日本林業技術協会(編)「土の100不思議」

日本林業技術協会(編)「土の100不思議」を読みました。

『土』についての蘊蓄が、(1)地球と土壌、(2)暮らしと土、(3)土の横顔、(4)土の中の生き物、(5)植物と土、の5章構成で紹介されてました。各章20項目ずつ、各項目見開き2ページで、執筆者名入りの記事が掲載されてました。各項目は独立しているので、読みたい項目だけ読むこともできます。


この本は、1988年から2005年まで日本林業技術協会会員に毎年1冊ずつ配布されていた『100不思議シリーズ』の第3巻とのことです。

『100不思議シリーズ』全18巻のPDF版が下記にて公開されています。出版から年月が経っているので、ひょっとしたら最新の知見とは若干異なる記述が含まれているかもしれません。しかし、私のような素人が最初のとっかかりとして勉強するには、ちょうどよさそうです。


また、日本森林技術協会が過去に発行した書籍・印刷物は、無料でPDF形式で下記サイトで公開されているそうです。勉強するのによさそうです。

読むリハビリと変性意識

(1)読むリハビリ

発症直後は、読み書き聞き話し考える能力をほとんど失ったに等しい状態になりました。それからコツコツとリハビリを続けて現在があります。

最初のうちはリハビリ方法の模索が中心でした。例えば文章を読むにはどうしたらよいか。

いろいろと試すうちに、変性意識に入ると文章が読みやすくなることを発見しました。少し入っただけで十分でした。

そこで、変性意識に少しだけ入って、意識状態をあれこれ変えて、文章が読みやすい意識状態を見つけることから始まりました。よさそうな意識状態を見つけると、その意識状態にとどまったまま文章を読む練習をします。

自然にその状態に入れるようになったら、再び意識状態を微調整して、より文章が読みやすい意識状態を見つけます。そして、新たな意識状態にとどまったまま文章を読む練習をします。こうやって意識状態の微調整を繰り返していると、文章を読む能力が少しずつ上がっていきました。


(2)読書のリハビリ

最初のうちは100文字程度の文章を読む練習から始めて、少しずつネット記事を読む練習へと移行していき、短い記事から長い記事へと移行して、やがて本を読む練習もできるようになりました。

ただし、最初のうちは分野ごとに文章を読みやすい意識状態が違っていました。そこで内容に合わせて意識状態を変える必要がありました。ありがたいことに、練習を繰り返すうちに特に意識しなくても適切な意識状態に自動的に移行できるようになりました。

それからさらに読書を繰り返しているうちに、読書能力が少しずつ少しずつ回復していきました。

今から思うと、意識状態を変えることで、脳のどの部位を利用するかを微妙に変えていたのではないかと思います。そして、このリハビリを繰り返すことで、壊れた部位を避けて、代替機能を使って読書できるようになったのではないかと思います。

(書き聞き話し考える能力についても、それぞれリハビリ方法を探す必要がありましたが、長くなるので今日は省略します)


(3)多人格?

そうやって変性意識に入ってばかりいたからでしょうか、例えば文章を書くときの人格と、疲れてダラーッとしているときの人格は、なんとなく違うような気がしています。文章を書くときも、日によって多少異なっているような気もします。

もしかしたら、変性意識への入り具合の微妙な違いで、潜在意識のどの部分とつながるかが違うのかもしれません。深さも違うのかもしれません。そのため、時と場合によって、人格が異なっているように感じてしまうのかもしれません。

その結果、「私ってこのような言動を取る人だったんだ!?」と時々驚くことになるのかもしれません(笑)


(4)ネット検索

リハビリを繰り返す中で一番最初に回復したのは、ネットでの検索能力でした。

「○○について知りたい」と強く思うと、検索キーワードが浮かんできたり、見に行くべきサイトが思い浮かんだりします。そしてすぐに見つかります。潜在意識の中でどのような仕組みが働いているのかは私にはわかりません。

ただし、発症前のレベルにはまだ達していません。そのため、練習になりそうな検索テーマが見つかると、ついつい検索したくなってしまいます。簡単には見つかりそうにないテーマについて探すのは面白いです。

慎重さを失ったときが、止めるとき

私の疲労は大きく分けて2種類あります。肉体的な疲労と、脳の疲労です。

  1. 私は全身の毛細血管の血行がイマイチなので、全身の細胞に必要物を運び込んだり、不要物を運び出したりする能率がイマイチです。そのため、動作を一定速度以下に抑えたり、チカラを一定以下に抑えたりしないと、すぐに疲れてしまいます。また、一旦疲れると、疲労回復までに人様より時間がかかります。この現象については「発症前より疲労が重くなった」と表現できるかもしれません。(これはひとつめの病気の後遺症です)

  2. 私は脳機能の一部が壊れているので、生き残っている部位をゆるく使ったり、代替部位を上手に利用することで、なんとか暮らしています。その影響で過負荷をかけやすい部位があります。うっかりそこに過負荷をかけてしまうと、しばらく働かなくなって、回復するまでに数時間から数日かかります。この現象を「脳の疲労」と表現しています。(これはふたつめの病気の後遺症です)

後者の「脳の疲労」は、発症前には経験したことのない種類の疲労ですが、他に適切な表現が見つからないので、「脳の疲労」と表現しています。

お蔭様でリハビリも療養もだいぶん進み、自分の状態もだいぶんわかってきているので、マイペースで一人暮らしする分には、あまり困ることはありません。しかし、人様の普通のペースに合わせるのは、まだまだ負荷が高いようです。


さて、脳が疲労してくると、言動パターンが普段とは異なってくることがよくあります。

例えば、脳が疲労している時に運転すると、普段よりも速度を出したり、道路状況の確認が疎かになったりします。おそらく、危険を感じる能力が落ちるからではないかと思います。そして実態以上に回復したように思ってしまうからではないかと思います。ですから、万能感を感じるときは普段以上に慎重に運転しないといけません。

同様に、会話が続いて脳が疲労してくると、必要以上に発話したくなるようです。読み書き能力と比べると、聞き話す能力の回復はとても遅れています。特に発話は脳が激しく疲労します。ですから普段はあまり発話しないようにしています。ところが、脳が疲労してくるとストッパーが外れてしまうのか、やたらと発話したくなるようなのです。普段は会話の機会をできるだけ避けているので、その反動もあるかもしれません。必要以上に発話したくなったときが、席を辞すべきときなのかもしれません。

おそらく何事においても、慎重さというストッパーが外れそうになったときが、より一層の慎重さが必要なときなんだろうと思います。

今日は休憩日

昨日まで3日連続で出かけたので、今日は休憩日でした。

それにしても3日連続で出かけることができるなんて、しかも3日連続でお話を約1時間ずつ聞くなんて、1年前でも信じられなかったのではないかと思います。年々回復を実感しています。

その代わりに、今日は疲労回復のためにダラッと過ごしてます(副交感神経優位にするためです)。昨日まで3日連続で活動的に過ごしたので(交感神経優位にしてたので)、まだ心身に緊張感が残ってます(交感神経が意欲的です)。十分に疲労回復するために、明日もダラッと過ごすことになるかもしれません。

我がうちなる不動明王

(1)ガット・フィーリング

英語には「gut feeling」という言葉があるそうです。直訳すると「はらわた感覚」ですが、意訳すると「勘」のような意味になるそうです。

英語の「gut feeling」が具体的にどのような感覚を指すのか知らないので、代わりに我流で「はらわた感覚」にいろいろと質問してみました。具体的には、「○○ですか?」と質問したり、「○○です」と宣言したりしたときの、鳩尾(みぞおち)から腹部にかけての感覚を観察します。スッキリ感があれば YES、違和感があれば NO と解釈します。

何十回、何百回と様々な質問を繰り返して、腑に落ちる答えを探ってみました。以下に結果の一部を書いてみます。読んでいただければわかるように、まぁファンタジーですね(笑)


(2)三つの意識

私の中には破壊的な感情があります。自分なり他人なりをやっつけてしまいたいという感情です。その感情は何のために存在しているのか?それを探っているうちに、私の中には、表の意識、中の意識、奥の意識があるらしいことがわかりました。

表面に近いところにある意識が大切にしているのは、どうやら「まわりに合わせること」のようです。周囲の人たちが考えてていることや望んでいることを大切にしようという意識があるようです。

少し中に入ったところにある意識が大切にしているのは、「愛(Love)」のようです。これはキリスト教圏で時々聞く「pure unconditional love」(純粋で無条件の愛)のことかもしれませんし、仏教で聞く「慈悲(抜苦与楽)」のことかもしれません。

さらに奥にある意識が大切にしているのは、「宇宙の平和」のようです。世界平和よりも範囲が広いようです。


(3)破壊的な感情

ところが、表の意識と中の意識の間に、破壊的な感情がドンと居座っているようなのです。

そのため、表の意識が大切にしている「まわりに合わせる」ことに否定的になったり、中の意識が大切にしている「愛(Love)」を押し殺したりしているようです。(ご存知のように、私は自己中心的で冷淡な人間です)

では何のために破壊的な感情が存在しているのか?

どうやら破壊の本当の対象は、私自身が作った妄想世界のようです。自分自身で作った自分自身に対するワクを取っ払うために、破壊的な感情が存在しているようです。

ところが私は、破壊的な感情の使い方が上手ではないようです。そのため、自分を痛い目にあわせて、その体験から学ばないといけなくなっているようです。おそらく、私のバグの原因もこれだと思います。もしも破壊的な感情の使い方が上手であれば、妄想世界だけを上手に破壊することができて、この世での大難が小難になるのかもしれません。。


(4)不動明王

そのような訳で、私は「破壊的な感情」との関係性を改めないといけないようです。

「破壊的な感情」だと思うと、ついつい排斥すべきものと考えてしまいます。しかし大切な役割があるのであれば、「破壊的な感情」というラベリング自体に問題があるのかもしれません。例えば「不動明王」だと思うと、関係性が随分と違ってくるかもしれません。

「我がうちなる不動明王よ、護り給え、導き給え」

この呪文でスイッチが入るといいな…