法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

ジャン・ヴァルジャンとミリエル司教

『ああ無情』を読んだのは小学校高学年頃のことでした。内容はほとんど覚えてませんが、長い長い小説だったという記憶だけは残っています。

お話の中で一番印象深かったのはやはり、主人公ジャン・ヴァルジャンと、魂の恩人ミリエル司教の出会いです。ジャン・ヴァルジャンは20代半ば頃に貧しさのあまり姪甥のためにパンを1本盗んだことで結果的に刑務所で19年間過ごすことになり、46歳でようやく出所します。行く先々で冷遇されて、ようやくミリエル司教に温かく迎え入れてもらったものの、その夜、ミリエル司教が大切にしていた銀の食器を盗んで逃げ出します。翌朝、不審人物としてジャン・ヴァルジャンを連行してきた警官に対してミリエル司教は「その食器は私があげたものです」と証言し、さらに銀の燭台2本を「忘れ物ですよ」とジャン・ヴァルジャンに差し出します。それまで人間不信と憎悪に満ち満ちていたジャン・ヴァルジャンの心は、ミリエル司教の情愛に触れて愛に目覚め、正直に生きていくことを誓います。

このお話は子どもだった私の心に深く刻まれました。当時の感想はもはや記憶にありませんが、いま改めて思い出してみると、ジャン・ヴァルジャンもミリエル司教も途轍もなくすばらしい人だったんだなと思います。

(1)例えば仮に私がジャン・ヴァルジャンのような人生を送り、心が荒んで辛くて苦しくてたまらない状況で46歳でミリエル司教に出会い、一宿一飯の恩を受けながらも同じような過ちを犯し、同じようにミリエル司教の情愛を受けたとして、はたして素直に改心できるだけの純粋な心を持っているだろうか?

(2)あるいは仮に私がミリエル司教のような人生を送り、やがて聖職者として生きる道を選び、司教となって76歳まで真摯に生きていたとして、はたして一宿一飯をともにしただけの初対面の人物に改心のきっかけを与えることのできる純粋な心を持っているだろうか?

残念ながら、私はどちらにも「No」と答えざるをえません。前述のエピソードは、純粋な心を持つすばらしい人物同士が出会ったからこその物語ではないかと思えて仕方がありません。

一方で「山川草木悉有仏性」という言葉があるように、私のように誰がどう見てもダメダメな人間にも「仏性」があるそうです。ですから、世間的にはダメダメな人間同士が出会った場合でも、ひょっとしたらジャン・ヴァルジャンとミリエル司教のような物語が生まれるかもしれません。おそらく私のようなダメダメ人間には、狙ってできるものではないと思います。逆に、何かに導かれるように無心の働きでお互いの「仏性」が響き合い、お互いに改心のきっかけを掴むことができるような、そんな偶然ならあるかもしれません。そんな出会いができるような人になりたいな…

今から思うと、子どもの頃に読んだ『ああ無情』は、ストーリーはそのまま残しつつ、子どもにも読めるように工夫した児童向け翻訳書だったのではないかと思います。いつか大人向けの翻訳を読んでみたいと思います。


「あゝ無情」
人は誰しもジャン・ヴァルジャンのように生きていくことができるのか…
人は誰しもミリエル司教のように生きていくことができるだろうか…


〔追記〕

『ああ無情』の冒頭部でジャン・ヴァルジャンに対してミリエル司教が行ったことは、やっぱり計算してできることではないですよね。

あのときはあれがベストだったのでしょうが、別の状況では別の方法がベストだったかもしれません。銀の食器だけをあげた方がよい場合、銀の食器を返してもらった方がよい場合、警察に引き渡して毎日面会に行った方がよい場合などなど、相手によって、状況によって、いろいろなパターンがありえたと思います。

きっと大事なのは、その時々のベストにピタッ、ピタッとはまることなんだと思います。そうすると相手もその時々のベストにピタッとはまって、周りの人たちもその時々のベストにピタッとはまって、全体がベストな流れにピタッとはまってくれる。そしてみんなの心が響き合う。そんな状況を自然に導き寄せてしまう人。そんな人になれるとすばらしいでしょうね。

そのためにはどうすればよいのか… いくら頭で考えても実現しないと思います。

そのヒントを見つけることは、いまの私の大きなテーマのひとつです。