法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

早口の薩摩弁は暗号通信に適していたか

第二次世界大戦で薩摩弁が暗号として使われたことがあるという話はこれまでに何度か目にしたことがありました。しかし、いつどこで、どのような状況で使われたのかは知りませんでした。今日久々にその話を目にしたので、思い立ってネットで検索してみました。

ときは1943年(昭和18年)5月頃、ところは日本の外務省と在独大使館の間。目的は、当時ベルリンに赴任していた野村直邦海軍中将(のちの海軍大将・海軍大臣)の帰国動向を伝えるためだったそうです。

以下、もう少し細かく書きますね。

1941年(昭和16年)12月8日の真珠湾攻撃から1年半後、補給線が伸びきって日本が劣勢へと転換する頃のこと。日独の技術交流の一環として、潜水艦(Uボート)2隻がドイツから日本へと無償譲渡されました。そのうちの1隻である U-511 に、野村直邦海軍中将がドイツからの帰国のために搭乗することになったそうです。当時は暗号電報に不安があったため、野村中将の動向を伝えるために採用されたのが、早口の薩摩弁だったそうです。日本の外務省と在独大使館の間の国際電話で利用されたそうです(戦時中に国際電話が使えたのは不思議な気がします…短波通信でしょうか…)

外務省にいたのは鹿児島県日置郡吉利村出身の外交官(牧秀司)、在独大使館にいたのは鹿児島県姶良郡加治木町出身の外交官(曾木隆輝)。偶然にも野村中将も吉利村の出身だったそうです。

さらに偶然が重なって、米陸軍情報部にも加治木町で育った日系二世の軍人(伊丹明)が在籍していたそうです。そのため早口の薩摩弁の録音から2ヶ月後に通話内容を英語に翻訳できたそうです。U-511 の航海は約3ヶ月だったので、日本近海に近付いた頃には野村中将が乗船していたことが知られていたかもしれません。はたして暗号として十分な強度を持っていたと言えるかどうか、軍事に暗い私には何ともわかりません…

(この暗号通信の解読まで2ヶ月間かかったことになってますが、本当のところはどうだったのでしょう…。ひょっとしたら、加治木町で育った米軍人はもっと早くからわかっていた可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。録音されていたのは奇しくも加治木町出身の外交官の声。懐かしく思うと同時に、聞かなかったことにしたいという気持ちが働いたとしても不思議ありません。逡巡の末、「このくらい黙っていれば恩人への恩返しになるだろう」と思った頃に、ようやく上司に報告したのかもしれません。いやいや、やはりこれは下衆の勘繰り、三文小説のネタにすらなりそうにありません。実際には米軍人として職務に忠実に働いて、記録通りに2ヶ月後に初めて判明したのでしょう。)

前述の加治木町で育った米軍人は、戦中から戦後にかけて暗号解読や通訳として重要な仕事を担当したそうです。その後、1950年(昭和25年)に39歳でピストル自殺を遂げたそうです。サンフランシスコ平和条約締結の前年のことだそうです。

話は戻って、U-511 は無事に日本に到着して「呂号第五百潜水艦」として訓練用に利用されたそうです。敗戦を舞鶴で迎え、1946年(昭和21年)4月に若狭湾で海没処分されたそうです。

※以上、付け焼き刃の調査ですので、間違いがありましたら申し訳ありません。


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本題とは関係ありませんが、加治木町つながりで…。児童文学作家の椋鳩十は鹿児島県加治木町立実科高等女学校の国語教師だったそうです。