法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

脱ジャンク・フードできるかな

思考能力のリハビリとしてソリティア(正式名クロンダイク)を始めてから3ヶ月が経ちました。当初はジャンク・フードのパワーを借りないとあまり解くことができませんでしたが、今では血糖値があまり高くなくてもそこそこ解くことができています。あまり複雑ではないゲームだからこそ、3ヶ月で上達できたのかもしれません。

それにあやかって、プログラミング能力についても、血糖値があまり高くなくてもできる、ある程度簡単なことを繰り返し練習してみようかと思っています。まずは、プログラミングの初心者が取り組むような簡単な練習問題を中心に、ジャンク・フードや甘いもののパワーを借りることなく取り組んでみようと思います。そして上達するたびに難度を上げていきたいと思っています。満足できるレベルに達するには年単位の時間が必要になると思いますが…

ジャンク・フードを食べなくてもできることが、少しずつ増えていきますように。

前後不覚

今朝のこと。充電していたワイヤレス・マウスをケーブルから外して使おうとすると、、

マウス・カーソルを上に動かしたつもりが下に動き、右に動かしたつもりが左に動き。。上下左右逆さまに動きます…

とりあえずコントロール・パネルを開こうと、なんとかかんとかマウス・カーソルを合わせて、えいやとばかりにクリックしても、マウスが固すぎてクリックできません…

はてさて iMac を再起動すれば元に戻るのか、それともソリティアのやりすぎでマウスがついに壊れてしまったのか…

念の為マウスを裏返してよくよく見てみると、、マウスを前後反対に置いていただけでした(笑)

正しく置き直したら、正常に戻りました♪

寒くなったから?? こんな失敗、初めてです…(笑)

今日も少し事務作業

今日も午前中はチョコを食べて事務作業をしました。秋も深まってきたので、簡単な内容でもお手紙を持っていった方が、用件を確実に伝えられて安心です。

今夜も囲碁棋譜並べをしました。先週の打合せから1週間お休みしてたからでしょうか、今日も碁石を持つ指が危なっかしくて、碁石を何度か碁盤の上に落としてしまいました。場数を踏んで慣れるしかなさそうです。

ソリティア(正式名クロンダイク)の成功率は今日も比較的高いままでした。リハビリとして取り組み初めたばかりの8月上旬頃のプレーの内容を思い出すと、わずか3ヶ月でも隔世の感があります(笑)。慣れって偉大だなぁ、と思います。

少し事務作業

少し楽になってきたので、午前中はチョコを食べて事務作業をしました。午後はソリティア(正式名クロンダイク)をしたり、休憩したり。夜は休憩でした。

先週の打合せ以来中止していた囲碁棋譜並べを1週間ぶりに1局だけしました。あれだけ派手な振り替わりを繰り返しても三目半差で終わるなんて、プロ棋士の判断力の正確さは凄いものだと思いました。

万能感

先日の打合せの脳の疲労がまだ残っているので、今日もポカが多かったです。

面白いもので、脳の疲労が溜まっている時の方が、万能感を感じて無理をしがちです。おそらく判断力が鈍って、危険性やミスに気付かないでいるだけだと思います。そのため、万能感を感じた時はできるだけ慎重に行動して、時々クールダウンをするようにしています。

今日は集中力不足でやりたかったことに手をつけられず、結局ソリティア(正式名クロンダイク)をしている時間が一番長かったように思います。8月上旬から3ヶ月間、みっちりプレーしてきたお蔭でしょうか、脳の疲労の影響は比較的小さく、今日もそこそこの成功率を上げることができました。

想像力より観察力

私は自分の症状を人様に伝えることがいつも上手にできません。そのため、相手によって伝わり方が全然違うようです。私の表現力が拙いので、相手の受け取る力に強く依存しているからだと思います。

つい先日も、同じ文面をお渡しして、まったく異なる対応を受けました。

ある方は、初対面の私の様子を見ながら最大限の配慮をしてくださり、とても丁重に接してくださいました。「この言葉で何を伝えようとしているのだろう?」と考えてくださったのではないかと思います。初対面なので念の為の意味もあったのでしょう、若干過剰なほどに丁重でした。しかし、もしもこれからもお会いする機会があれば、私の状態について少しずつ理解を深めてくださって、私のできることできないことを配慮しながらご対応くださるのではないかと思いました。

別の方は、表面的には丁寧に接してくださいましたが、端々で鼻で笑われているような印象を受けました。知識と体験をもとに、「この言葉はきっとこういう意味だろう」と想像して、それに基づいて接してくださったのではないかと思います。「その程度のことで甘えるな」「大袈裟に考えてるだけだろう」と思われたのかもしれません。

立場の違い、体験の違いなどによって、人を見る目が全然違ってしまっているのではないかな、と思いました。


子どもの頃に読んだアンデルセン童話『裸の王様』で一番印象に残っているのは、馬鹿には見えないとされる装束を着た王様が得意気にパレードをしている姿を見て、子どもが「王様は裸だ!」と叫ぶシーンです。その一言で王様の虚偽が沿道の人々の口に上るようになりました。

童話『裸の王様』では仕立て屋は詐欺師という設定になっているので、子どもはフェイクを見破りファクトを指摘した英雄とされています。では現実世界でフェイクとファクトを判別することは簡単なことでしょうか?

例えば、道元の著作の解釈は人によって大きく異なると思います。解釈の仕方によってフェイクとファクトの判別が全然違ってくるかもしれません。あるいは、政治・経済・社会の分野でもフェイクとファクトの判別は人によって大きく異なっていることはよくあるように思います。技術分野でも、研究開発に没頭して権力闘争に興味のない人と、逆に権力闘争に没頭して研究開発を置き去りにしている人とでは、技術的な常識もセンスも大きく異なります。思い描く未来の姿によっても大きく異なります。そのため、フェイクとファクトの判別は人によって大きく異なっているように思います。

こうして考えてみると、たくさんある解釈の中でどの解釈が正しいのか、その判定が簡単にできる分野は意外と限られているのかもしれません。したがって、私の症状の解釈が人によって大きく異なるのは当たり前のことなのかもしれません。


そうは言っても、希望としては、想像力より観察力を重視して欲しいなぁと思います。想像力を重視すると大きな誤解を抱きがちだからです。かなりわがままな希望かもしれませんが…

しかしながら、日々の体験は私自身の心の鏡だと思いますので、まずは私自身を改めるところから始めないといけないんだろうなと思います。