法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

身から出る火の粉

(1)WHAT vs. WHO

なんとなく、世の中には「WHAT 文化圏」と「WHO 文化圏」の2種類があるように思います。

WHAT 文化圏は「何が正しいか」が重要となる文化圏です。「何が正しいか」を決めるためのモノサシを共有して、そのモノサシに従って「何が正しいか」をみんなで活発に議論して決める文化圏です。この文化圏では、「どのモノサシが正しいか」というメタな議論も活発です。一人一人が「正しい」方向へ向けて努力します。

WHO 文化圏は「誰がエライか」が重要となる文化圏です。「誰がエライか」を決めるためのモノサシがぼんやりと共有されていて、そのモノサシに従って「誰がエライか」を競い合って決める文化圏です。この文化圏では、序列を見極めたり予測したりする能力がとても重要となります。一人一人が「エライ」方向に向けて努力します。


(2)モノサシ

WHAT 文化圏では「何が正しいか」をみんなで議論して決めるので、モノサシはみんなで共有しやすいものでないといけません。共有しやすいモノサシを使うことで、方向性を共有したまま個々人が自律的に行動することができるようになり、全体として驚くほどの強さを発揮できます。その逆に、共有の難しい種類のモノサシをうまく扱えないところが弱みかもしれません。ときには、モノサシの良し悪しよりもわかりやすさがものをいうことがある点も弱点のひとつかもしれません。

それに対して WHO 文化圏では、「誰がエライか」がまず決まって、その場で一番エライ人が「何が正しいか」を決めます。そのため、一番エライ人の長所短所や能力が、集団としての長所短所や能力に直結します。その結果、ときには驚くほど優秀になり、ときには驚くほど愚劣になります。また、「誰がエライか」はその時々の状況によって揺れ動くので、一番エライ人と言えども、支持者の利益に配慮することはとても重要です。そのため、一番エライ人が「何が正しいか」の最終決定権を握っているとは言え、場の空気に大きく逆らうことはできません。その結果、「何が正しいか」もその時々の状況で揺れ動きます。この集団で生きていくためには、一番エライ人のモノサシを読み取る能力と、場の空気を読む能力がとても重要となります。モノサシが主観的なので、エライ人の機嫌を損ねると痛い目にあうことが多いです。


(3)火の粉

WHO 文化圏では、エライ人の機嫌を損ねる行為を「火の粉」に喩えることができるように思います。

多くの人は「火の粉」を飛ばさないように、また「火の粉」が降りかからないように気をつけながら生きています。「火の粉」が飛んできそうになったら、迷わず振り飛ばします。そのため、うっかりして「火の粉」を振り撒かざるをえない立場になってしまうと、多くの人から「火の粉」扱いされて、遠くに吹き飛ばされてしまうことになります。

前述の通り、WHAT 文化圏と WHO 文化圏ではモノサシの種類がまったく異なります。そのため、WHAT 文化圏の人が無防備なまま WHO 文化圏に迷い込んでしまうと、WHAT 文化圏では当たり前の言動が、WHO 文化圏では「火の粉」扱いされてみんなから振り飛ばされてしまうかもしれません。場合によっては、ゴミ扱いされたり、悲劇につながったりすることがあるかもしれません。


(4)寄らば大樹の陰

WHO 文化圏では、「火の粉」を防いでくれる人が尊ばれるように思います。飛んできた「火の粉」を自分たち以外のところに吹き飛ばして(火除けをして)くれる人です。

吹き飛ばされた「火の粉」は、たいがい立場の弱い人のところに流れていきます。喩えるなら、立場の強い人たちは風上にいて、立場の弱い人たちは風下にいるような感じです。仮に、世間の「火の粉」が立場の強い人のところに流れていっても、すぐに吹き飛ばされて立場の弱い人のところへ、さらに立場の弱い人のところへと流れていきます。最終的に、世間で立場の一番弱い人たちのところに「火の粉」が集まります。その結果、立場の一番弱い人たちは、世間の皺寄せを一手に引き受けることになります。

さらに喩えるなら、立場の強い人たちの周りにいると、「台風の目」の中にいるように平穏にすごすことができます。ところが、「台風の目」から一歩でもはみだすと、「火の粉」の暴風雨にさらされることになります。そのため、多くの人は「寄らば大樹の陰」とばかりに、立場の強い人の庇護を求めて必死になります。その「椅子取りゲーム」からこぼれ落ちた人たちは、「火の粉」にまみれて生きることになります。


(5)たらい回し

本音では「火の粉」には誰も近づきたくありません。

そのため、仮に立場の弱い人が困った状況に陥ったとしても、周りの人からは「火の粉」にしか見えないので、誰に相談しても色々ともっともらしい理由をつけられて「たらい回し」されることになります。

「火の粉」を振り払おうとしている人たちにとっては、潜在意識のレベルでは我が身かわいさゆえの「たらい回し」です。しかし、顕在意識のレベルでは善意による「たらい回し」へと脚色されているので、躊躇なく「たらい回し」できます。

また、「寄らば大樹の陰」とばかりに立場の強い人の周りに集まっている人たちからすると、立場の強い人が困った状況に陥るということは、自分たちが困った状況に巻き込まれる可能性が高いことを意味しています。そのため、立場の強い人に降りかかった「火の粉」は、取り巻きの人たちが力を合わせて吹き飛ばします。そして最終的に、立場が一番弱い人のところに集まります。

このようなことが日常的に繰り返されることで、立場の強弱が固定化され、さらには強化されていきます。


(6)火の粉は火の粉

世の中の人たちは、みなさん必死で生きています。

「火の粉」を吹き飛ばしたい人の気持ちもわかります。

「火の粉」が集まってくる人の気持ちもわかります。

「火の粉」として吹き飛ばされる人の気持ちもわかります。

でも、どうしたらよいのかはわかりません。

「火の粉」は「火の粉」として生きていくしかないのかもしれません…