法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

鳥の視点、虫の視点

(1)階層的理解

私は後遺症の影響で「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」で、一度にたくさんのことを考えることができません。そこで次のような工夫をしています。

何かを理解するときは、全体の構造と要素を分けて考えます。まず各要素について理解して、次に要素間の関係を理解することで(=構造を理解することで)、全体の理解を試みます。構造と要素の二階建ての理解ということもできると思います。

もしも要素が大きすぎて理解できないときは、その大きな要素の内部を構造とサブ要素に分けて考えます。そして、各サブ要素について理解して、それからサブ要素間の関係を理解します。すなわち、構造と要素とサブ要素の三階建ての理解ということもできると思います。

複雑度が高いときは、四階建て、五階建て、と階層をドンドン深くしていきます。

こんな風に階層的に理解して、必要に応じてズームイン/ズームアウトすることで、狭い「思野」の中に収めて思考しています。お蔭で「思野狭窄」でもある程度考察することができています。

※ただし、どう工夫しても「思野」に収まらないような複雑度の高い内容については、今は思考することができません。


(2)鳥の視点

しかし思い出してみると、私は子どもの頃から他の人よりも「思野」が狭かったように思います。そこで、子どもの頃から構造に注目して階層的に理解するようにしてました。階層的な理解に慣れていたお蔭で、「思野狭窄」になってもちょっと不便になった程度で済んでいます。

※喩えるなら、発症前は電子地図を使って対象を拡大縮小しながら思考してました。発症後は望遠レンズを使って対象を拡大縮小しながら思考してます。そのくらい視角が小さくなりました。

階層的な理解は「鳥の視点」と相性がよいので、自然に「鳥の視点」を身に付けたのかもしれません。


(3)虫の視点

私は「虫の視点」に対する理解が弱いので、現時点では想像するしかありません。見当外れが多いかと思いますが、こんな感じでしょうか…

「虫の視点」を得意とする方は、

  1. 身の回りのことは直接体験を大切にします。具体的な範囲は人によって異なります。丁寧に何十年と続けた人が達人の域に達することができるのかもしれません。

  2. その一方で、縁遠いこと(直接体験できないこと)は中身にはあまり興味がなく、印象から想像を膨らませます。常識や噂話を活用して、人間観・世界観作っています。想像を膨らませたり、想像内容を語り合ったりする時間を大切にします。

  3. また、遥か彼方のこと(例:天体、大自然、偉人)は、見上げるのみです。

喩えるなら魚眼レンズのように、手元は大きく、手元から離れるほど小さく見えているのでしょうか…


(4)現世利益

ところで、世間の常識は、現世利益を大切にするように思います。

そのため、常識を大切にする人は、現世利益を大切にする人でもあるように思います。(ここでの現世利益には、世間体や安心感なども含まれます)

そこで、常識に従って物事を「○」か「×」かに分類するようです。現世利益につながることが「○」、現世利益を損なうことが「×」と判定されるのではないかと思います。成績に喩えるなら、「○」が「可」、「×」が「不可」となるようです。そのため、「×」を無くすことが重視されます。「○」の質は問われません。

また、人間関係も現世利益へのつながりやすさによって「上」「並」「下」と分類されるようです。そして、「上」の人に対しては丁重に、「並」の人とは親しく、「下」の人はぞんざいに、応対するようです。

親分子分関係でも、現世利益へのつながりやすさが重視されるように思います。

現代の日本人は、常識を不文聖典として、常識が定める現世利益を求めて、必死で生きているのではないかと思います。


(5)犀の角

おそらく日本では、「虫の視点」が多数派で、「鳥の視点」は少数派です。また、常識を大切にする人は超多数派で、大切にしない人は超少数派です。

そのため、私は一人でいるのが一番気楽に感じるのかもしれません。世間からも同様に見られているかもしれません。