法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

言葉にできない

(1)朝の夢

大きな病気をふたつ続けて体験してから何年経ったことでしょう。その後遺症の影響で、貴重な体験を重ねることができています。特に、常識と想像力について考察する材料をたくさんいただきました。

先日、夢を見ました。もしかしたらフェーズの変わり目にあるのかもしれません。


(2)共有概念

ところで、言葉は共有概念を交換するためにあります。それを重ねることでコミュニケーションが進みます。

例えば、米飯。食べる。美味しい。それぞれの単語を聞いて思い浮かべる概念は、みなさん、ほぼ同じだと思います。和語も熟語も外来語も、それらが示す概念をおおよそ共有しているからこそ、コミュニケーション手段として用いることができます。

専門用語も同様です。その分野に詳しい人同士であれば専門用語が示す概念をおおよそ共有しているからこそ、コミュニケーション手段として用いることができます。

特定の世代や仲間内だけで使われる言葉も同様だと思います。

いずれの場合も、言葉は共有概念を交換するための貴重な手段になっていると思います。


(3)非共有概念

逆に、共有概念にはないことを伝えようと思ったら、言葉はとても不便です。

例えば、数学の最新定理があまりに美しいのに感動して、数学に興味のない友人に感動を伝えようとしても、「感動した」という心の動き以上のことを伝えることはできません。「感動した」はお互いの共有概念ですが、数学の概念は共有できてないからです。仮に数式を見せても感動は伝わらないと思います。

あるいは、宇宙空間から地球を眺めて感動した人が、その感動を友人に伝えようとしても、「感動した」という心の動き以上のことを伝えることはできません。仮に写真をたくさん見せたとしてもです。「感動した」も地球の美しさもお互いの共有概念の範囲ですが、宇宙体験を通して感じたことはお互いの共有概念にないからです。

※写真と実体験の差は途轍もなく大きいと思います。大富豪はそれがわかっているからこそ、途方もない大金をはたいてでも宇宙空間に飛び出したいのだと思います。

これは、あらゆる分野で同様ではないかと思います。


(4)瞑想を伝える

これはファンタジーに属することかもしれません。

ある人が瞑想したとします。瞑想の感動を、瞑想したことのない友人に伝えようとしても、共有概念が少なすぎて表面的にしか伝えることができないのではないかと思います。

また別の人が瞑想したとします。なにかが体の表面をモゾモゾと動いているように感じたとします。あるいは、なにかが体内を勢いよく動いていて、ときどき体外に飛び出しては返ってくるように感じたとします。自分でもなにがおきているのかわかりません。ひょっとしたら瞑想者が「エネルギー」と呼んでいるものかもしれません。その体験を瞑想したことのない友人に伝えようとしても、共有概念がないので、まったく伝わらないのではないかと思います。

さらに別の人が瞑想したとします。肉体感覚が消えてエネルギー体のようになって、やがてエネルギー体の感覚も消えて体があるのかないのかわからなくなったとします。そして、この世の「ある」「ない」とは別概念の「ある」という状態になっているとします。この世の常識から離れすぎているので、もはや言葉で表現しようという気持ちにすらならないかもしれません。


(5)夢を伝える

例えば夢の中で、前述の表現しようのない「ある」の世界にいるとします。

そして、その表現しようのない「ある」の世界における「ある」「ない」の概念をもさらに超えた世界から、「なにか」が降りてきたとします。その「なにか」は、ゆらゆら降りてきたようでもあり、すーっと降りてきたようでもあるとします。また、その「なにか」は「ある」のか「ない」のかすらわからず、なにやら存在感だけは感じるとします。そして、(夢の現場である)表現しようのない「ある」の世界における「からだ」と合体したとします。その瞬間、見えない閃光を感じて、感じられない柔らかさと優しさを味わったとします。それから「南無阿弥陀仏」と声なき声を称えたとします。その夢を見たあと、明らかに瞑想の質が変わったとします。

夢の中の話なので、仮に本人にとっては具体的であったとしても、それを言葉にした瞬間に、恐ろしく抽象的で読むに耐えない文章になってしまうのではないかと思います。運よく読んでくれる人がいたとしても、まったく異なった体験として伝わって、予想もしなかった尾鰭がついてしまうのではないかと思います。共有概念がないだけでなく、想像のとっかかりすらないので、仕方ありません。

五感を超えて、「ある」「ない」をいくつも超えた世界の夢のお話は、言葉で表現できないだけでなく、ファンタジーの仲間に入れてもらえるかどうかもわかりません。。


(6)一遍上人

一遍上人の和歌に「身をすつる すつる心を すてつれば おもいなき世に すみそめの袖」というのがあるそうです。

「身をすつる」をこの世の概念で理解することもできますし(例:献身的に生きる)、この世にはない概念で理解できるかもしれません(例:高次元世界に本心を置く)。「すつる心」も同様です。「おもいなき世」とは、「ある」「ない」を遥かに超えた世界のことかもしれません。そこは「身」「心」「おもい」という概念を遥かに超えた世界ではないかと思います。「墨染めの袖」は僧衣から転じて僧侶を表す言葉です。一遍上人が恋慕う阿弥陀仏は、この世の概念を遥かに超えた世界に御座します。

すなわち、「本心はこの世の概念を遥かに超えた世界に住み、同時にこの世では一介の僧侶として献身的に生きていく」。そんな心境を綴った和歌だと捉えることもできるように思います。それが一遍上人にとっての「南無阿弥陀仏」で生きる姿なのかもしれません。


(7)多義的なスルメ

そんなこんなを考えてみると、言葉にするのが難しいことは、直接的な表現を試みるよりも、多様な解釈が可能な文章で表現した方がよいのかもしれません。ある視点から読むと本心が伝わり、別の視点から読むとまた別の気持ちが伝わるような文章で、本心を暗に仄めかした方がよいのかもしれません。そのような文章は、噛めば噛むほど味の出るスルメのような文章と言えるかもしれません。

聖人の言葉は、そのような観点で読んだ方がよいのかもしれません。

いつの日か、私もそのような深みのある文章を書けるようになりたいものだと思います。もとい、そのような深みのある人物になりたいものだと思います。