法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

常識外れな境遇にある人にとっては、常識は高い壁

(1)常識外れと怒り

常識は、矛にもなり、盾にもなります。

例えば、常識外れな症状を持つ人は、それを人に伝えてもなかなか信じてもらえません。

悪質な嘘をついているんだろうと思われて、怒鳴られたり、馬鹿にされたりすることもあります。精神的なものだろうと思われて、できないと言っていることを無理矢理やらされることもあります。悪い噂を立てられることもあります。

おそらく、常識を大切にする人は、常識外れなことを口にされると、怒りの感情が湧き上がってくるのではないかと思います。そこで、嘘をついていると思ったり、気分的なものだろうと思ったりするのではないかと思います。そして、常識外れなことを二度と口にしないよう、あれこれ手を尽くそうとするのではないかと思います。親切心の発露として、真人間に立ち返らせようとしているのではないかと思います。


(2)常識外れと不安

その先は、ふたつのパターンがあるように思います。

ひとつは、諦めて匙を投げるパターンです。この場合は、怒りは鎮まらないでしょうから、「あいつはとんでもないやつだ」と悪い噂が広まるかもしれません。

もうひとつは、常識外れの症状を現実として受け入れて、不安になるパターンです。そして、常識の範囲で対策を考えようとするようです。(しかし、常識外れの症状に対して、常識で対処しようとしても、なかなかうまくいくものではありません)


(3)常識の高い壁

上記の例では健康面の問題でしたが、経済的・社会的に常識外れな境遇にある人も、同様な扱いを受けるのではないかと思います。

すなわち、常識外れな境遇にある人は、そのことを人に伝えようとするたびに、様々な形で怒りの感情を浴びることになるのではないかと思います。諦めて匙を投げられるまで続くこともあれば、やがて現実を受け入れて不安になる人もいるのではないかと思います。

いずれにしても、世の中と距離を置いて、一人で解決しなくてはいけなくなるのではないかと思います。一人で深く苦悩するからこそ前進できる側面もあれば、強力な支援者がいてこそ前進できる側面もあるように思います(前者は精神的側面、後者は社会的側面)。

常識外れな境遇にある人にとっては、常識は高い壁のように見えるのではないかと思います。だからこそ、貴重な学びの機会となり、大きな成長の機会となるのではないかと思います。