(1)常識教
私は自他ともに認める「常識のない人」なので、世間の常識はほんの一部しか知りません…
限られた知識の範囲内で思い出してみると、世間の常識の骨格は全国的におおよそ共通ですが、細かいところはコミュニティによる差があったり、体験を通じた個人差があったりするように思います。
細かい差異はあるにしても、常識を大切にする人たちは、常識の想定内に収まることをとても大切にしているように思います。個々の常識について、その妥当性とは関係なく、遵守することが大切なようです。
そして、常識の想定内に収まって暮らしていると、ご利益があると考えているようです。例えば、身の回りの人たちと阿吽の呼吸で助け合って生きていけたり、行政等の大組織から救いの手が差し伸べられたりといった、目に見える現世利益があると考えられているようです。
また、常識の想定内に収まらない人を見ると怒りの感情が沸き上がり、常識の想定内に収まらない事態が発生すると不安になるようです。常識は生きる規範であると同時に、心の拠り所となっているように思います。
このように考えると、日本人にとっての世間の常識は「不文憲法」ならぬ「不文聖典」という位置付けではないかと思えてきます。日本人の多くは無宗教だと思っているようですが、実際には「常識教」の敬虔な信徒ではないかと思います。日本人の多くは、常識の「おかげ」に守られながら暮らしているのではないかと思います。その一方で、異教徒(常識のない人)には冷酷な側面もあるように思います。
(2)引き上げる
常識教の敬虔な信徒どうしは、助け合って暮らしているようです。特に困っている人に対しては、自分のことを後回しにして、親身になって支援するようです。
その際、困っている人自身には細かいことは相談せず、周りの人たちで話し合って、常識に従って支援内容を決める傾向があるように思います。
常識教の敬虔な信徒であれば、常識に従って支援内容を決めてもらうと、自動的に本人の希望とほぼ一致します。本人の希望とのズレはわずかなので、微調整が必要な場合でもすぐに対応してもらえます。仮に本人が遠慮しても、ぐいぐいと支援を続けてもらえます。困っている人にとっては、とても心強い存在ではないかと思います。
(3)引き落とす
ところが、異教徒(常識のない人)にとっては、大変困った事態を引き起こすことがあります。
本人に相談なく噂話だけで周りの人たちが動くので、知らないうちに「とても困っている人」にされて、「困っている人を助けよう」と話が進んで、綿密な計画が立てられます。そして、遠慮されることのないように十分に計算された方法で声をかけてきます。(例えば「ちょっと助けて」)
そして、あれよあれよという間に、とても困った状態に引き摺り下ろされてしまいます。そこから抜け出そうと奮闘しても、ぐいぐいと引き摺り下ろされます。みんなが諦めるまで、そして「やる気のない人」というレッテルを貼って見放されるまで、それが続きます。見放された本人は、やれやれと一息ついてホッとすると同時に、どうやって立て直そうかと考えてゾッとすることになります…
もしかしたら、あまり敬虔ではない常識教徒も、いくばくかの困った経験をしたことがあるかもしれません。
(4)常識の遠近感
ところで、常識教の敬虔な信徒には、なんとなく見えない階層構造や仲間意識があるのではないかと思います。そのため、階層の近い人どうし、特に親しい人どうしで助け合う傾向があるように思います。
逆に、階層が大きく離れている人に対しては支援が形式的になる傾向があるように思います。また、まったく知らない人がどんなに困っていても(例えば路上で倒れていても)、見て見ぬふりをする傾向があるように思います。それどころか、自己責任論を振りかざして支援を止めさせようとすることもあるようです。
もしかたら、常識が近そうな人どうしでは助け合う一方で、常識が異なりそうな人とは距離を置いたり反目しあったりするのかもしれません。
(5)結束と排撃
このように、日本人の多くは「常識教」の敬虔な信徒ではないかと思います。
ただし、「常識教」内は多数の宗派に枝分かれしているのではないかと思います。そして、宗派が近そうな人に対して親近感を抱くと同時に、宗派が遠そうな人とは距離を置くのではないかと思います。宗派が近ければ近いほど距離感は近く、宗派が遠ければ遠いほど距離感は遠くなるのではないかと思います。
しかし、宗派がどんなに枝分かれしていても、元はひとつです。危機に際しての信徒の結束力はとても高いのではないかと思います。危機が高まれば高まるほど、みんなして常識に従って行動するように思います。それと同時に、異教徒に対する排撃も強くなるように思います。例を挙げるとすれば、戦時にも、戦後復興期にも、災害時にも、感染症流行期にも…