法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

上限値と暮らす

(1)上限値

私は肉体的な上限値を色々と抱えています。例えば、肺のガス交換能力が低いので、酸素消費量を一定以下に保つ必要があります。また、血行が悪いので(=全身に栄養や酸素を送ったり、全身から老廃物を回収したりする能力が低いので)、栄養消費量・酸素消費量等を一定以下に保つ必要があります。

いずれも気温や体調により大きく変動するので、できることが季節によって大きく変わります。猛暑期はできることが一年を通して一番多く、秋から冬へと気温が下がっていくごとにできることが少しずつ減っていって、厳冬期はできることが一年のうちで一番少なくなります。そして、春から夏へと気温が上がっていくと、できることが少しずつ増えていきます。同様に、筋力や持久力も気温によって大きく変動します。歩く速度も変わります。

頭脳作業も気温の影響を大きく受けます。気温が変わると脳の状態も変わるので、考えたり思い出したりという基本的なことですら、脳の使い方を少しずつ変えていかないといけません。猛暑の季節は瞬発力があるので、判断力が高かったり、雑念で遊ぶ余裕があります。しかし厳冬期は脳があまり回らないので、慎重に暮らす必要がありますし、雑念の余力もあまりありません。

これまでの経験から、夏から冬にかけての気温が少しずつ下がっていく季節は、上限値の変化に冷静に適応できて調子が安定しやすいです。しかし、冬から夏にかけての気温が少しずつ上がっていく季節は、嬉しさのあまり無理をしがちで、調子が変動しやすいです。また、長雨などで気温が急激に下がったときは、調子が落ちやすいです。


(2)負荷と上限値

上限値の変化に合わせて、できることが大きく変化する理由は、おおよそ次ではないかと推測しています。

例えば、坂道を歩いて上がっているとします。ご想像通り、坂道が急なほど、栄養や酸素を消費します。

坂道の角度によっては、坂道を上がるために必要な栄養消費量・酸素消費量が、肉体的な上限値を超えることがあります。少しでも超えると、途中で何度も休憩が必要になります。場合によっては、事前に休養して体調を整えたり、事後に静養して疲労回復に努めたりする必要が出てくるかもしれません。

さらに坂道の角度が急になって肉体的な上限値を大幅に上回った場合には、坂道を上ること自体ができなくなってしまいます。

同様に、日常生活におけるひとつひとつの動きが必要とする栄養消費量・酸素消費量が、その時々の肉体的上限値を超えると、休み休み動かないといけなくなります。大幅に超える場合は、動き自体ができなくなります。このような理由から、季節によってできること・できないことが大きく変動するのではないかと推測しています。

※健康な方々は坂道で肉体的な上限値を上回ることはないと思いますが、私は発症直後は平地でも200m〜300mごとに休憩が必要だった時期があったくらいで、今でも坂道は気温によって角度によって登坂難易度が異なります。坂道の例は、私にとっては日常的な例です。同様に、健康な方々は日常生活における普通の動きが肉体的な上限値を上回ることはないと思いますが、私にとっては日常的なことです。


(3)限界を超える

様々な上限値を抱えていると、日常生活に様々な限界が発生します。その限界を超えるため、大きく分けて (1) 省エネ・ゼロエネ、(2) リハビリ、(3) 工夫、の3つの方向性で取り組んでいます。

1 番目の省エネ・ゼロエネは、体や脳を使うときのエネルギー消費量をできるだけ少なくしよう、不必要なことはしないようにしよう、という取り組みです。体を動かすときは、力を抜いて必要最小限の力しか使わない、不必要な動きはしない。脳を使うときも、必要最小限のことしか考えない、不必要なことは考えない。その結果、エネルギー消費量が十分に下がると、実質的に上限値が上がったかのような効果を得ることができます。

2番目のリハビリは、主に脳機能が対象で、一旦は失ったも同然となった脳機能を回復させようという取り組みです。お蔭様で、作文と読書については(発症前とはまだまだ比べ物にならないものの)大きな成果を得ています。会話能力と思考能力については、多少回復して日常生活ではなんとかなっているものの、実用レベルには程遠い状態です。

3番目の工夫は、主に軽作業が対象で、作業の各要素のやり方を工夫することで、その時々の上限値を超えない範囲に抑える取り組みです。例えば、力まかせに行う代わりに、道具を上手に活用したり、道具を軽いものに替えたり、重力・慣性を上手に利用したりします。

お蔭様で上限値は年々改善していることもあって、できることは年々増えています。しかし、残念ながらまだ人様のペースに合わせられるレベルではないので、ほとんどの時間を一人で過ごしています。


(4)肉体的な上限値

肉体的な上限値には様々なものがあって、それぞれ気温や体調によって変動します。しかし、その時々の上限値を超えないように気をつければ、快適に暮らすことができます。そこで、ゆっくり、ゆったり、マイペースで暮らしています。軽作業も同様に、負荷も時間も限定すれば、ある程度作業できます。

血行が悪いため疲労回復には時間がかかるので、過負荷にならないよう気をつけないといけません。

体が温かい方が楽なので、例えば猛暑期は昼間に炎天下で軽作業した方が楽です。作業時間は限られているので、熱中症対策や日焼け対策をしないで肌を直射日光にさらしています。また春や秋も、体が温まるように時間を限って連続的に軽作業した方が楽です。冬は軽作業はあまりできません。

全身の血行が悪いため、内臓の血行も不十分なようです。そのため、例えば腎臓等による通常の排泄機構だけでは老廃物を排出しきれないようなので、半身浴は必須です。また、消化器官の能力も低いようで、食事量は人様より少ない方が調子がよいです。体感的に、食事量を減らすと添加物の影響が大きくなるように思うので、食事内容には注意が必要です。


(5)チャリ散歩

今年は猛暑期に電動アシスト自転車でのチャリ散歩に挑戦しました。チャリ散歩を繰り返すうちに、肉体的な上限値よりだいぶん低い負荷しかかけないコツを見つけることができました。また、一般的な意味での持久力もついてきました。そのため、期待以上の距離を走ることができるようになりました。また、低負荷のコツを身に付けたので、近隣への外出も以前より楽になりました。

これまでの経験から、私が電動アシスト自転車で快適にチャリ散歩をするためには、運転面では (1) モーターの活かし方、(2) ギアの選び方、(3) 重力と慣性の使い方、が重要なように思います。コース選定においては、(1) 軽いアップダウンのあるコース、(2) 交通等の妨げにならないコース、(3) 見通しのよいコース、が運転しやすいように思います。肉体面では、(1) 脱力を心掛けること、(2) 肉体的上限値を超えないこと、(3) 体を温めること、が大切なようです。

また、目的もなくダラダラ走るよりも、買物や寺社巡りなど、なんでもいいから目的があった方が楽に運転できるように思います。無理なく往復するために、ペース配分を真剣に考えるからかもしれません。そのため、適度な集中力と適度なリラックスを保ったまま運転できるのかもしれません。


(6)脳機能

後遺症のため脳機能の一部がうまく働きません。発症直後は、読み書き聞き話し考える能力をほとんど失ったも同然でしたが、お蔭様でリハビリが功を奏して随分と回復しています。うまく働かないのはどうやら顕在意識まわりが中心のようで、潜在意識はほとんど問題なく動いてくれているように思います。ありがたいことに、潜在意識のどこかに隠れている「昔取った杵柄」も生きているようです。

そこで、顕在意識の負荷をできるだけ小さくしつつ、潜在意識に隠れている能力を上手に引き出すと、思った以上にいろんなことができるようです。例えば、日々のリハビリ作文は顕在意識に内容をまかせた方が面白い作文が書けます。また、たまに思い出したように行っているプログラミング能力のリハビリも、潜在意識に潜んでいる「昔取った杵柄」をどのくらい引き出せるかが鍵となっています。

私の場合は、潜在意識とつながるためには、若干変性意識に入らないといけません。変性意識に入るためには、一人きりになって心身を穏やかにする必要があります。そのため、人様と一緒に頭脳作業をするのはまだまだ難しいと思います。


(7)脳の上限値

脳にも栄養消費量・酸素消費量による上限値があるようです。そのため、発症前のように脳をガンガン使おうとすると、すぐに疲労して脳が動かなくなってしまいます。その対策として、できるだけゆっくり、ゆったり、休み休みマイペースで使わないといけません。疲労が大きいのは主に顕在意識を働かせた場合のように思うので、顕在意識を使うのは必要最小限にとどめる必要があります。

その影響もあるのか、脳の回転速度は発症前よりかなり遅くなりました。リハビリの効果が随分と出ているはずの作文や読書ですら、発症前より随分と時間がかかります。聞き取り能力も低く、聴覚情報処理障害のような症状があるので、ゆっくりでないと十分には聞き取れません(ゆっくりすぎても、記憶がすぐに蒸発するので聞き取れません)。発話能力も十分ではなく、簡単な話、表面的な話しかできません。そのため、ちょっと複雑な要件があるときはお手紙に書いて持っていく必要があります。また、思考能力が低いので、余分なことを考える余力がありません。それに加えて、「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」になってしまったため、一度に考えられる範囲は随分小さくなりました。

脳が疲労すると、軽作業にも影響します。例えば、細かい作業が難しくなったり、見落としが多くなったり、体のバランスが取れなくなってフラフラしたりします。そのため、集中力が必要な軽作業は、作業時間が限られてしまいます。特に細かい作業は脳への負荷が大きいので、あっという間に脳が疲労することがよくあります。そのため、現段階では相当単純な軽作業しかできません。

脳は意外と酸素を消費するので、マスクをしたまま読書をすると呼吸がだんだん荒くなっていきます。幸い、マスクを付けなければ普通に読書できます。(思い出してみると、発症直後は頭脳作業をするだけで呼吸が荒くなっていたので、随分と改善しています)


(8)高カロリー食品

脳の上限値を一時的に引き上げる必要がある場合は、高カロリー食品で一時的に血糖値を大きく上げると効果があります。おそらく現状では、脳への酸素供給能力は十分で、栄養供給能力だけが不足しているのだと思います。

人体はとてもよくできていて、血糖値が急激に上がると、体内の糖分調整機構が働いて、やがて平常値に戻ります。そのため、高カロリー食品の効果は、糖分が平常値に戻るまでの数時間だけです。

血糖値の急激な上昇と下降は体内各所に負荷を与えるので、できれば避けたいと思ってはいます。しかし、高カロリー食品の効果はあまりに絶大なので、ついつい頼ってしまいます…


(9)短期記憶が消える

以前は、短期記憶が突然消えてなくなることがよくありました。そして、今どこにいて、何をしているのか、まったくわからなくなってました。

そのようなときは、身の回りを見回したり、姿勢や持ち物を確認したりして、どこにいて、何をしているのか、推測するようにしてました。ある程度はわかるのですが、細かいところは間違うことがよくありました。

例えば、自宅でコーヒーをいれている途中で短期記憶がパチンと消えたとします。身の回りを見回すと、コーヒーを入れていたことはわかるのですが、手順をどこまで進めていたかの推測はよく間違えてました。そこで手順を決めて、いつ短期記憶が消えても推測を間違えることがないように工夫してました。

ありがたいことに、今では短期記憶がすっかり消えてなくなることはとありません。しかし逆に油断しやすいのか、時々手順を間違えることがあります。最近では、水を入れ忘れたままヤカンを火にかけたり、お湯を沸かしたあとドリッパーに注ぐのを忘れたり… まぁ、この程度で済んでいるので助かっています。


(10)常識との乖離

お蔭様で、できることは年々増えています。特に、興味を持って継続的に取り組んできたことの伸びは、とても大きいように思います。逆に、興味を十分に持てなかったことについては、あまり伸びていないように思います。

その結果、できること・できないことの組み合わせが、世間の常識の範囲からどんどん外れているように思います。一方で、私自身が発症前の状態をどんどん忘れているので、健康な人の感覚(世間の常識的な感覚)がどんどんわからなくなっています。そのため、現状を人様にわかりやすく説明することが年々難しくなっています。

しかし思い出してみると、発症直後から人様に症状を説明しても理解してもらえなかったように思います。怒鳴られたり、鼻で笑われたり、できないと言っていることを無理矢理やらされたり… また、ちょっと話を聞いて「きっとこんな症状に違いない、あんな症状に違いない」と想像を膨らませて、その創造に基づいて親切にしてくださる方が多いように思います。逆に、私から「これはできます、しかしそれはできません」とお話ししても、なかなか信じてもらえません… そういった体験を通して、人々の中の「常識」の位置付けを垣間見ることができました。今から思うと、とても貴重な体験でした。


(11)父性と母性

「常識」は基本的には強者によって作られるので、強者の論理(上から目線の論理)に満ちているように思います。かつては漢籍に親しむことで倫理を「常識」に取り込んでいたのではないかと思いますが、現代では漢籍の教養はすっかり廃れてしまいました。そこで、弱者に接するときは「常識」とは別の枠組みが必要ではないかと思います。

このような表現が適切かどうかわかりませんが、、現代の「常識」は父性論理のように思うので、「常識」とは別に、どこかに母性感性が必要ではないかと思います。かつては、大家族、親戚付き合い、近所付き合いなどを通して自然に身につけていたのではないかと思います。いつの間にか忘れ去られた母性感性を取り戻す必要があるのではないかと思います。