法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

常識は日本の不文聖典かもしれない

(1)常識

世間には常識と呼ばれるものがあるようです。どうやら幼い頃から少しずつ学んでいくべきことのようです。熱心に取り組んで世間の常識に精通している人もいれば、私のように世間の常識に疎い人もいます…

常識を大切にされている方は、「人は常識に従うものだ」と思っておられるのではないかと思います。さらに進んで、「少しばかり常識外れな人はいるかもしれないが、常識から大きく外れた人がいるはずがない」と思っておられるかもしれません。そこに落とし穴があるのではないかと思います。


(2)悪い例

例えば、Aさんは上司のご機嫌を取るのがとても上手な一方で、部下に対しては横暴な言動を繰り返す人だとします。

Aさんの横暴さに困り果てた部下のBさんが、上司筋のCさんに相談しました。Cさんは「Aさんがそんなことをするはずがない」「Bさんは悪質な嘘つきだ」と判断しました。Bさんは上司筋の信用をすっかり失ってしまいました。

ある日、Aさんが泥酔して暴力事件を起こしました。Aさんは逮捕され、Bさんは名誉回復しました。

この例では、Bさんの訴えが上司筋の常識から大きく外れていたため信じてもらえず、逆に上司筋の常識の範囲内では「Bさんは悪質な嘘つきだ」という判断が妥当と思われたのではないかと思います。ところが、Aさんが暴力事件で警察沙汰となり上司筋の常識が大きく書き変わったため、部下の話を聞いて「Bさんは信頼できる」「Aさんは横暴だ」と判断が変わったのではないかと思います。


(3)良い例

別の例として、Dさんの成果が世界の有識者の間で高く評価されているとします。

Dさんの同僚であるEさんは、社内でそのことを触れて回りました。社内では日陰者のDさんの実力を正当に評価してもらいたかったからです。ところが社内の人たちはその話を信じることができず、「DさんもEさんも誇大妄想家だ」と思われて、却って社内での評判を下げてしまいました。

そんな事件がすっかり忘れてられた頃、Dさんは世界的に権威ある団体から表彰されました。Dさんに対する社内の評価は180度変わり、Eさんも名誉回復できました。

この例では、Eさんの話が社内の常識から大きく外れていたため、誰にも信じてもらえなかったのではないかと思います。ところが、Dさんの受賞を聞いて社内の常識が大きく書き変わったため、Dさんの社内評価が180度変わったのではないかと思います。


(4)常識と事実

どちらも架空の例ですが、こんな風に日本では「常識」から大きく外れた「事実」はなかなか信じてもらえないように思います。権威ある人たちによって「常識」が覆されてはじめて、「事実」を「事実」として認めてもらえるように思います。

すなわち、日本では「常識」は「事実」より高い権威を持つのではないかと思います。

まずは「常識」に基づいて判断されて、「常識」的にありうると判断されてはじめて、「事実」に目を向けてもらえるのではないかと思います。また、「常識」を書き換えることができるのは、一定の権威を備えた人たちに限られるのではないかと思います。


(5)誰と何

日本で「常識」が「事実」より高い権威を持つのは、日本では「誰がエライか」が「何が正しいか」よりも重視されるからではないかと思います。

日本の「常識」を作っているのはエライ人たちではないかと思います。古今東西のものすごくエライ人たちが骨格を作って、次にエライ人たちが肉付けして、その次にエライ人たちが枝葉を整えて… そうやってできあがった「常識」に逆らうことは、とんでもなくエライ人たちに逆らうことになる可能性があるのだと思います。

一般の人からは、「常識」のどの部分を誰がどうやって作ったかはわかりません。そこで「常識」とされることであれば、真偽や重要度と関わりなく、従順に従うことが「日本で生きていくための知恵」なのかもしれません。

逆に、「常識」より「事実」を重視する人は、社会秩序を破壊する危険分子と見なされるのかもしれません。そのため、執拗な口撃にさらされたり、見えない形で村八分にされたりすることがあるのではないかと思います。

したがって、日本で平穏に暮らしたければ、「常識」を「事実」より上位に位置付けないといけないのかもしれません。日本で暮らす大多数の人たちが「常識」を優先しているので、たくさんの矛盾をはらみながらも、日本的な秩序が保たれているのかもしれません。


(6)想定内と想定外

「常識」が「事実」より高い権威を持つということは、視点を変えると、日本は想定内のことにしか対処できない社会なのかもしれません。

例えば、良いことも悪いことも「常識」の想定内だった場合のみ「ありうる」と判断してもらえるように思います。万一、「常識」の想定外であれば、「ありえない」と判断されるだけでなく、罵倒される可能性すらあります。「ありうる」と認めてもらいたければ、努力と工夫を積み重ねて「常識」を書き換えるしかありません。

また、リスク対策として「常識」の想定内の事態を想定した計画は必須とされますが、「常識」の想定外の事態を想定した計画を立てようとすると「縁起でもない」と嫌がられることがあります。「常識」の想定内に固執することは、一種の願掛けなのかもしれませんし、コスト削減や実態隠蔽のための言い訳なのかもしれません。(逆に言えば、常識は強者に都合よく作られているのかもしれません)

そのような状況を鑑みると、日本は「常識」の想定外に対処できない脆弱な社会ではないかと心配になります。万一、「常識」の想定外の事態が発生すると、社会は機能不全となり、人々は正常な判断力を失って、大混乱に陥る可能性が高いのではないかと思います。


(7)不文聖典

社会が混乱すればするほど気持ちに余裕がなくなって、平常時以上に「常識」が重視されるようにも思います。まさに「わらにもすがる思い」なのかもしれません。

そして「常識」の範囲内でありながらも突拍子もない方法で逆転満塁ホームランを打ってくれそうな人(あるいはトリックスター的な人)が、人気を博するのかもしれません。逆に「常識」の範囲外となる提案は、仮にどんなにすばらしいものであっても、ほとんど相手にしてもらえないのかもしれません。

世界中の敬虔な信徒が聖典を大切にするように、多くの日本人は「常識」を大切にして生きているのかもしれません。もしかしたら多くの日本人にとって「常識」は「不文聖典」なのかもしれません(←不文憲法からの造語です)。だからこそ「常識」は「事実」より高い権威を持ち、日本的な秩序を保つ力を持っているのかもしれません。


(8)呪縛からの脱出

したがって、劇的な変化が起きるのは、次に大いなる権威を持つ人たちが「常識」を覆すときかもしれません。かつて下級武士が権力を握ったときのように… あるいは鬼畜と呼ばれた人たちが絶対権威に変わったときのように…

はたして日本社会は「常識」操作による支配から脱することはできるのでしょうか。