法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

どんな話にしておけば都合がよいか

私は噂話に興味がないので、噂話の現場に立ち会ったことはほとんどありません。数少ない経験からの印象では、「こうではないか」「ああではないか」「そうかもしれないね」「きっとそうだ」などのように話が進んでいくようです。

そんな風にして、当事者がいないところで、当事者への事前聴取も事後報告もなく、その場にいる人だけで話し合って「事実関係」を決めていくようです。どうやらそれが繰り返されるうちに、やがてコミュニティの共通認識ができあがっていくようです。

このような進め方では、その場にいる人が納得することが一番重要で、正確性は犠牲とならざるをえません。噂話は、私にはとても不思議な文化でした。


しかし、視点を変えると噂話の役割が違って見えてきました。

噂話とは、どんな話にしておけば都合がよいかを話し合って決めること、なのかもしれません。

だからこそ、当事者への事前聴取も事後報告も、誰も必要性を感じないどころか、行わない方が却って都合がよいのかもしれません。逆に、有力者の鶴の一声には誰も逆らえないのかもしれません。

当事者としては、事情がわからないままシカトされ続けることを選ぶか、事情がわからないまま謝り倒すことを選ぶか、二つに一つなのかもしれません。前者を選んだ人は、やがてコミュニティから追放されるしかないのかもしれません。

そんな風に考えると、噂話を好むコミュニティで生きていくのは、とても大変なことなんですね…