(1)取捨選択
現代社会は様々な情報であふれていて、事実を見極めることが難しくなっています。一方で、昔々の社会では手に入る情報が限られていて、事実を見極めることが難しかったのではないかと思います。もしかしたら、いつの時代にも良質な情報を得ることはとても難しいことなのかもしれません。
情報を分析して得た事実の中には、喜ばしいものもあれば、辛く悲しいものもあると思います。あらゆる事実をすべて受け入れられるとよいのですが、ついつい受け入れ可能な事実を取捨選択してしまう人(=気に入らない事実をなかったことにする人)は多いのではないかと思います。
その際、人によって受け入れられる割合が異なっているのではないかと思います。例えば、心の柔軟な人であれば事実を100%近く受け入れられるかもしれませんが、偏狭な人は10%にも満たないかもしれません。思い入れのある分野では特に、受け入れられる割合が人によって大きく異なっているのではないかと思います。
(2)事実vs.心地よさ
そのような傾向が見られるのは、人によって事実を優先するか、知見を優先するかが異なるからではないかと思います。
事実を優先する人は、知見をブラッシュアップするために事実をフル活用しているのではないかと思います。それに対して知見を優先する人は、事実を取捨選択するためのフィルターとして知見を活用しているのではないかと思います。すなわち、事実と知見の役割がまったく逆になっているのではないかと思います。
見方を変えると、世の中を理解するときに、事実から出発するか、心地よさから出発するかの違いがあるのではないかと思います。
柔軟な人ほど事実を大切にして、事実から知見を組み立てていくのではないかと思います。その結果「地に足がついてる」感の高い、安定感のある知見が得られるのではないかと思います。一方、偏狭な人ほど心地よさを大切にして、自分にとって心地よい知見を組み立てるのに都合のよい事実だけを選ぶのではないかと思います。その結果「地に足がついてる」感の低い、高揚感のある知見になるのではないかと思います。
(3)自分の目vs.他人の目
ところで、まったく知らない分野について勉強するとき、多くの人は世間の常識(知見)の勉強から始めるのではないかと思います。その後、そのまま世間の常識(知見)を学び続ける人もいれば、試行錯誤を繰り返して自分なりの体系(知見)を一から作り直す人もいると思います。
言い換えると、他人の目を通して理解することに満足できる人と、自分の目を通して理解しないと満足できない人がいるように思います。
他人の目を通して理解する割合が高いほど、効率よく勉強できますが、「地に足がついてる」感の低い、隔靴掻痒な知見になるのではないかと思います。自分の目を通して理解する割合が高いほど、手間暇はかかりますが、「地に足がついてる」感の高い、クリスタルクリアな知見が得られるのではないかと思います。
(4)ありのままvs.ハリボテ
人は自分自身を見るとき、ありのままの自分を受け入れられる人と、受け入れられない人がいるように思います。人によって、受け入れられる割合や、受け入れられる内容が異なっているように思います。
また、人は目標を持ったとき、研鑽を重視する人(自力派)と、政治力や演技力を重視する人(他力派)がいるように思います。
自分自身を受け入れられる人ほど研鑽を重視して、受け入れられない人ほど政治力や演技力を重視する傾向があるのではないかと思います。研鑽を重視するほど「地に足がついてる」感が高まり、政治力や演技力を重視するほど「地に足がついてる」感が低くなるのではないかと思います。
(5)心の重心
以上をまとめると、「地に足がついてる」感の高さの分水嶺として、次の3種類があるように思います。
- ありのままの自分を受け入れられる人と、受け入れられない人
- 自分の目を通して理解する人と、他人の目を通して理解する人
- 事実を重視する人と、心地よさを重視する人
いずれも、前者の方が心の重心が低く、柔軟でドッシリしているように思います。それに対して、後者の方が心の重心が高く、偏狭でトンガッてるように思います。
どちらが好みかは人それぞれだと思います。近年では後者のタイプの人気が高いように思います。後者は威勢が良く、力強く、攻撃的な傾向があるので、そこにかっこよさを感じるのかもしれません。私は前者が目標です。