法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

人は自分で作った物語の中で生きている

(1)物語を生きる

人は自分で作った物語の中を生きているのではないかと思うことがあります。

その物語の中で自分自身のキャラ設定をして、その設定通りに振る舞う。身の回りの人たちもキャラ設定をして、その設定を前提として付き合う。有名人もキャラ設定して、その設定を前提として見る。

そうやって自分で作った物語の中で生きていると、周りの人たちは無意識のうちに空気を読んで、本人が望むキャラ設定に合わせて応対してくれるのではないかと思うこともあります。

そんな風にお互いの物語を尊重し合うことで(空気を読み合うことで)、人間関係が潤滑に回っているのかもしれません。しかし逆に、生き辛さの大きな原因となっている人もいるかもしれません。

一人一人の物語は、その人の人間観や世界観に基づいて舞台設定されているのではないかと思います。「色眼鏡で見る」という表現は、自分の物語における舞台設定を前提として見ることを指しているのではないかと思います。

一人一人の心の中の声を聞いたことはありませんが、そんな風に思うことがあります。

※なお、ここでの「物語」は「アドリブ劇の舞台設定」のような意味です。


(2)一人一人の物語

一人一人の物語は、その人にとっての「当たり前」の認識から成り立っているのではないかと思います。理想の姿であったり、一所懸命に勉強した成果であったり、人生経験から得た教訓であったり… しかしその「当たり前」には願望・恐怖・誤解などが数多く含まれていたり、自分の都合・価値観・正義感・劣等感なども含まれていたりするので、客観的な事実とは大きく異なる部分がたくさんあるのではないかと思います。

そのため、本人は「当たり前」の世界を生きているつもりで「作り話なんて一切ない」と思っていても、傍目には「あの人の物語」や「この人の物語」の中で生きているように見えることがよくあるのではないかと思います。

毎日顔を合わせていても、毎日連絡を取り合っていても、お互いにまったく違う物語を生きているかもしれません。お互いの認識の齟齬が大きければ大きいほど、問題の原因となりやすいのではないかと思います。


(3)役柄と配役

一人一人の物語の中で自分自身のキャラを立てようと思ったら、脇役が必要になります。時には対立する役柄が必要になることもあると思います。

例えば、優秀な人物役を演じたい人は、平凡な人物役、愚鈍な人物役が欲しくなることと思います。あるいは、正義の味方役を演じたい人は、悪役、被害者役、雑兵役が欲しくなるのではないかと思います。物語が壮大になればなるほど、たくさんの役柄が必要になりそうです。

一人一人が作る物語は、その人にとっての「当たり前」から構成されているものの、客観的な事実とは大きく異なる部分が多々あると思います。同様に、物語の中の配役も、客観的な事実とは大きく異なる部分が多々あるのではないかと思います。妄想力の強い人ほど、物語や配役と現実の乖離が大きいように思います。乖離が大きいほど問題が起きやすいでしょうから、問題を起こしては悪役をどんどん増やしていくことになるのではないかと思います。


(4)自分のキャラ設定

現実との乖離が一番大きくなりそうなのは、自分自身のキャラ設定だと思います。

残念ながら、人は自分で思っているほどは優秀ではなかったり、善人ではなかったりすることが多いからです。本来であれば、研鑽して自分自身の能力を高めるべき局面だと思います。

ところが、もっとお手軽な手法を好む人をよく見かけます。例えば、権力者に取り入って覚えめでたくなったり、威厳ある態度をとって実力以上に高く見せたり、あるいは「ト書き」を朗読するかのように自分のことを針小棒大に宣伝したり… 中身を見ないで印象だけで判断する人が多いからこその手法ではないかと思います。

場合によっては、自分より優秀だったり善人だったりする人がいて、自分の物語が成り立たなくなってしまうことがあると思います。本来であれば、現実に合わせて物語を作り直すべき局面だと思います。ところが、物語を大切にして邪魔者を退場させようとする人もいるようです。例えば、邪魔者の信頼を失墜させるような妄想上の噂話を流したり、邪魔者の活動を妨害したり… おそらく、自己否定の心が強ければ強いほど自分の物語が攻撃されたと思って、激怒して反撃してしまうのではないかと思います。


(5)他人のキャラ設定

次に乖離が大きいのは、身の回りの人たちのキャラ設定です。

乖離の大きな理由は、人を正確に理解することはとても難しいため、ついつい空想を膨らませてしまうことにあるのではないかと思います。

しかし人は空想通りには行動してくれません。仮に空気を一所懸命に読んでくれる人であっても百点満点にはならないでしょうし、中には強烈な空気圧をかけると秘孔を突かれたかのように立ちすくんでしまう人もいるかもしれませんし、そもそも空気を読む気のない人もいるかもしれません。

そのような場合には、イソップ寓話『北風と太陽』のように、大きく分けて2種類の態度があるように思います。

太陽方式の人は、穏便に(あるいは情熱的に)話し合うことから始めます。そして、配役やキャラ設定を事実に近づけたり、やんわりと圧力をかけて忖度心を引き出したりしながら、妥協点を探ろうとするのではないかと思います。どうしても期待通りに動いてくれない場合は、モブキャラ扱い(エキストラ扱い)になることもあるようです。

北風方式の人は、力づくで従わせようとします。例えば、妄想上の悪い噂を流して四面楚歌にして精神的に追い詰めたり、心身の弱点を繰り返し攻めたり(=イジメ倒したり)、高圧的な態度に出て強制的に忖度を引き出そうとしたり、時には脅したり騙したり暴れたり… こんな風に道徳的にも法律的にも問題となる言動を平気で繰り返す人は、一方では権力者に上手に取り入って覚えめでたいことが多いため、被害を訴えると却って信用を失う結果になりがちなように思います。

北風方式の人は、どうしても期待通りに動いてくれない人を、稀代の悪党役にすることがあるようです。そのために、妄想上の酷い噂を広く流して社会的信用を失墜させる制裁を加えると同時に、自分はいかにもすばらしいことをしていたかのような妄想上の噂も流して悪行がバレないような対策も取るようです。

印象としては、北風方式の人は、妄想力の高い人(=自己否定の心が強い人)が多いように思います。自己否定の心の強い人は、自分の物語が攻撃されたと思って怒って反撃するからではないかと思います。


(6)物語ありき

本来、人はそれぞれすばらしい能力を持っていると思います。一人一人が持ち味を出し合えば、すばらしい成果を達成することができます。一人一人がキラキラと輝く場を作ることができたなら、まさに「打ち出の小槌」状態だと思います。

ところが、物語ありきになると事情が大きく変わります。

視野がとても狭くなって、人の能力を評価するモノサシが非常に偏ったものになってしまうからです。その結果、持ち味を出し合うことが実質的にできなくなるどころか、足の引っ張り合いになってしまうように思います。

偏狭なモノサシを持つ人ほど、研鑽の仕方も偏っている人が多いように思います。そのためか、知識が古くて、理解が浅くて、間違いが多くて、結果的に能力が低い人が多いように思います。そのような人が他人を評価すると、自分より優秀な人ほど恐ろしく低く評価して、逆に自分に従順な人ほど高く評価する傾向があるように思います。自分に従順な人の中でも、空威張りが得意な人を非常に高く評価する傾向もあるように思います。そのため、彼らがリーダーになると、組織の天地がひっくり返ってしまいます。

したがって、一人一人が偏狭さを手放すことはとても重要なことだと思います。そのためには、物語ありきの姿勢を手放すことが重要になると思います。物語はできるだけ穏やかなものにして、できれば物語自体を手放した方がよいと思います。


(7)配役ありき

ところで、身の回りの人たちの配役やキャラ設定については、身近な人たちで共有する必要があります。

そこで、噂話を通して共有したり、応対時の態度から周りの人に読み取ってもらおうとしたりしているようです。特殊なキャラ設定の場合は、感情をあらわにして啖呵(たんか)を切ったり見得(みえ)を切ったりすると、信じてもらいやすくなるようです。

そうやって共有された配役やキャラ設定は、簡単には変えられないようです。

例えば、スゴイ人役に選ばれた人は実態と関係なくスゴイ人とされ、ヒドイ人役に選ばれた人は実態と関係なくヒドイ人とされてしまうように思います。他の配役も同様だと思います。配役が変更されるのは、役柄のイメージを大きく壊すような出来事があったときだけのように思います。

そのため、たまたま決まった配役で一生オイシイ思いをする人もいれば、一生クヤシイ思いをする人もいると思います。

こんな風に、実態とは関係なく配役が決まるのは、人の本質を見る目を持つ人が少ないからだと思います。人を表面的に見ることしかできないため、印象・経歴・立場など表面的な情報から判断するしかないのではないかと思います。目上の人に取り入るのが上手な人も高く評価される傾向があるように思います。

そのような訳で、まず配役を決めてから、配役の理由を後付けで掻き集めているように思います。

摩訶不思議な配役に苦しめられることのないようにするためにも、物語はできるだけ穏やかに、できれば物語をなくしてしまった方がよいと思います。


(8)サティヤ

私はサティヤ(Satya、真実語)を目標のひとつとしています。(インドの伝統的な五戒のひとつです)

サティヤの観点からは、事実に基づかない物語は捨てたいと思っています。ところが自分が作り出した物語は、自分自身ではなかなか気付くことができません。そこで心の中を観察しながら、事実に基づかないパーツを見つけるたびに、ひとつひとつ断捨離していきたいと思います。

いつの日か、ありのままに人やものを見れるようになりますように。