法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

『誰が』思考から『何が』思考へ

(1)「何が」対「誰が」

判断が必要になったとき、「何が」正しいかで判断する人と、「誰が」正しいかで判断する人がいるように思います。

「何が」正しいかで判断する人は、「テーマ」についてできるだけ正確に「調査」して、自らのモノサシに基づいて判断します。

「誰が」正しいかで判断する人は、「発言者」についてできるだけ正確に「評価」して、自らのモノサシに基づいて判断します。


(2)二極化からエンタメへ

現代社会では手に入る情報が多すぎて、一人一人が身の回りの情報の信頼性を吟味しないといけません。しかし、仕事や暮らしで忙しい中、情報ひとつひとつについて信頼性を正確に判断するのは途方もなく大変なことです。そこで、信頼できる情報源をいくつか見つけて、その情報源にだけ注目することは、生活の知恵のひとつかもしれません。ところが情報源を比較検討することも実は簡単なことではありません。そこで結局、情報源を「好き嫌い」や「手に入りやすさ」など信頼性とは関係のないことで選ぶ人は多いのではないかと思います。

その結果、様々な情報を集めて「何が」正しいかを判断する人と、発言者を見比べて「誰が」正しそうかで判断する人の二極化が起きているのではないかと思います。

ところが、生活が苦しくなればなるほど、「何が」正しいかを判断する時間的・精神的な余裕がなくなって、「誰が」正しいかで判断する人が増えていくのではないかと思います。さらには、「誰が」正しいかを判断する余裕すらもなくなって、好感度・簡明さ・痛快さ・評判・肩書・経歴・利害関係など表面的なことで選ぶようになるのではないかと思います。

そのため、人々の余裕がなくなればなくなるほど、「何が」正しいかで判断する人に向けて情報や課題を提示する人たちは人気を失い、代わりに「誰が」正しそうかで判断する人に向けて一種の「エンターテイメント」を提供する人たちが人気を博すようになるのではないかと思います。


(3)ハーメルンの笛吹き

それが昨今の様々な社会問題の根っ子に横たわっているのではないかと思います。そのため、世情が厳しくなればなるほど、ありえないことがまかり通ってしまうのではないかと思います。それは政治、経営、学問、そのほかあらゆる分野で起きているのではないかと思います。

混乱期特有の現状は、喩えるなら「ハーメルンの笛吹き男」に従って人々が練り歩いているようなものかもしれません。現代社会が、破壊と再生に向けてまっしぐらに歩いている姿なのかもしれません。

※奇しくも「ハーメルンの笛吹き男」が子どもたちを連れ去ったのは今から737年前の今日、1284年6月26日のことだそうです。(日本史で言えば2度目の元寇の3年後のことです)


(4)『誰が』思考から『何が』思考へ

町工場を世界的大企業に育てた経営者のエピソードを読むと、「何が」正しいかという視点で経営にあたっていたのではないかと思われます。肩書とは関係なく、誰にでも教えを請い、誰とでも議論して、よりよい商品を開発したり、よりよい体制を作ったりしていたようです。経営者のそのような仕事の進め方が、自由闊達な社風を作っていったのではないかと思います。

ところが会社が大きくなるにつれて創業者のカリスマ化が進み、「誰が」エライかという視点でものを見る社員が増えていったのではないかと思います。このような変化が、大企業病の大きな原因のひとつとなったのではないかと思います。

日本が不況から脱するためには、「誰が」正しいかという視点を捨てて、「何が」正しいかという視点に戻る必要があると思います。自由闊達な社会を作っていく必要があると思います。