法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

民俗の不易流行

文明的なものは時代とともに大きく変わっていきますが、文化的なものはなかなか変わらないように思います。

同様に、人間が考えることは時代とともに変わっていきますが、考え方の底流にあるものは変わることなく受け継がれているように思います。

例えば、かつては病人を癒すために霊験あらたかなるお守り・お祓い・御祈祷をお願いすることが広く行われていたのではないかと思います。現代ではその役割を、権威ある薬・手術・入院が担っているのではないかと思うことがあります。触れ込みが立派であれば、機序も効能も副作用もどうでもよい、ありがたそうであればなんでもよい。そんな風に、昔も今も同じような発想で行動しているのではないかしら… 霊験も権威も、人々にとっては同じようなものなのかもしれません。

また、私は噂話に興味がないので、噂話をしている現場に立ち会ったことがほとんどないのですが、数少ない経験からは、噂話は狐憑き・狸憑きと同じようなものではないかという印象を持っています。噂話の現場では、事実関係をきちんと調べないで「こうではないか」「ああではないか」「そうかもしれないね」「きっとそうだ」のように話が進んでいくようです。あるいはエライ人の鶴の一声で決まることもあるようです。私から見るとそれはまるで、狐や狸に取り憑かれた人たちが霊能者気取りで御託宣を語り合って、同時にサニワし合っているように思えてしまいます。エライ人は高位の霊能者とみなされているのかもしれません。昔々であれば、噂話が間違っていたときは「すまぬ、狐に騙されていた、狸に騙されていた…」と言えば水に流すことができたのではないかと思いますが、現代ではどうしているのかしら…

かく言う私の考え方もかなり古臭くて…、他人を恨むのも、病気を恨むのも、世情を恨むのも似たようなもので、そのような排他的な考え方をしていると「人を呪わば穴二つ」のような結果が待っているのではないかと思うところがあります。排除し合う関係から、ともに成長する関係へと変わることができたなら…、まるで青虫が蝶になるように大きな大きな変化が起きて、不幸な側面を持たない関係へと生まれ変わることができるのではないかしら… そんな夢のようなことを思っています。