法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

思い込みの激しい人たち

(1)難解なコミュニケーション

昔々、あるところに、何を伝えたいのかよくわからない人がいました。文章中の言葉の修飾関係が曖昧かつ複雑で、読みようによって「○○です」とも「○○ではありません」とも解釈できるような、難解な文章を書く人でした。依頼文にしても、いつ、どこで、何をして欲しいのか、とてもわかりにくい文章を書く人でした。文章をちゃんと書く気のない人でした。自分の書いた文章から意図を読み取れない方がおかしいと思っているようでした。

その人は、文章の読解力も独特でした。例えば「Aです」と書くと、「あなたはBと言うけど、云々」と批判する返事が返ってきます。「いえいえ、そうではなくてAです」と書くと、「あなたはCと言うけど、云々」と批判する返事が返ってきます。やがて「あなたが言いたいことは文章を読まなくてもわかっている、云々」と批判する文章が返ってきます。他人の文章をちゃんと読む気がなくて、想像すればわかると思っているようでした。

またあるところに、何を問題としているのか、まったくわからない人がいました。具体的なことをほとんど言わないからです。その代わり、凄んだり、怒鳴ったり、騙したり、暴れたりしてました。何も言わなくても分かるはずだと思っていたのかもしれません。

そのような不思議なコミュニケーションを取る人たちと何人もご縁がありました。


(2)強烈な思い込み

今から思うと、みなさん、非常に思い込みの激しい人たちでした。

どうやら「誰が考えても、誰が調べても、自分と同じ結論になるはずで、そうならない方がおかしい」と固く信じているようでした。そのため、わかりきったことを改めて言う必要はないと思っていたのかもしれません。あるいは、面と向かって言うと相手を傷つけると思っていたのかもしれません。はたまた、(彼らにとっての)自明なことに気付けない相手に、腹が立って仕方がなかったのかもしれません。

しかしながら私の体験の範囲では、思い込みが激しい人ほど、事実からの乖離が大きくなるように思います。自分こそが絶対的に正しいと思い込んでいるため、調査も推理も検証も非常に恣意的で、間違いの指摘に耳を貸さないからではないかと思います。

また、思い込みが激しい人ほど、不思議と自己中心的な発想をするように思います。自分は優秀かつ品格ある逸材で、世間から特別扱いされてしかるべきと思っているようです。逆に「バカ」に見える人たちに対してとても攻撃的です。そのため、強者におもねり、弱者を踏みつける傾向が強いように思います。

思い込みと事実の乖離が激しいため、彼らは日常的にコミュニケーションで大変苦労しているのではないかと思います。そのためか、強者や仲間の前では理想的な人物として振る舞い、弱者の中でも忖度上手な人たちを取り巻きとして大切にしていたように思います。逆に、事実関係をきちんと調べて間違いを指摘する人や、忖度せずに自分の意見を言う人を遠ざけていたように思います(どちらも、彼らにとっては大変な「バカ」に見えていたのかもしれません)。


(3)小さな殻の中

思い込みの激しい人たちは、自分が作った小さな殻の中に閉じ籠っているのではないかと思うことがあります。

狭い殻の中しか見ないで考えるから、答えはひとつしかないと思ってしまうのかもしれません。そして、「誰が考えても、誰が調べても、自分と同じ結論になるはずで、そうならない方がおかしい」と固く信じてしまうのかもしれません。

しかし殻の外にも目を向けると、可能性は山のようにあって、答えはひとつとは限りません。人によって、経験も境遇も心の豊かさも違います。また、世間の常識はどんどん書き変わっています。人それぞれ結論が異なるのは当たり前のことだと思います。

もしかしたら、彼らは自分が作った殻の中の小さな世界に閉じ籠って、「お山の大将」を演じているのかもしれません。小さな殻の中での「鶏口牛後」があまりに気持ちよくて、殻の外に出たくないのかもしれません。思い込みと事実とのギャップに苦しみながらも、必死に踏ん張って「お山の大将」を演じ続けている自分の姿が、とてもかっこよく思えるのかもしれません。

一方、殻の外は広大で開放的で、新鮮な体験であふれていて、楽しみが尽きることはありません。「お山の大将」ごっこよりも、遥かにワクワクする日々が待っていることと思います。

もしも、彼らが「お山の大将」への興味をなくして、自分の作った小さな殻から抜け出すことができれば、随分と楽に生きることができるのではないかと思います。そのような方向に心をほぐすことができるといいなと思います。現代社会において、「ゆるむ」「ほぐす」はとても大切なことだと思います。