法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

社会学と顕在意識

(1)社会学の中心地と辺境地

社会学の入門書を読みました。

著者は日本人なのに、紹介されているのは西欧と米国の研究成果ばかりでした。Wikipedia の「社会学」の説明を見ても、西欧と米国の研究成果ばかりが紹介されていました。なんだか不思議な感じがしました。他の地域の研究成果はどこに行ってしまったのでしょう…

もしかしたら、日本の社会学は、欧米的なモノの見方に強く影響されている一方で、欧米から認められる研究成果を出せてないことを意味しているのかもしれません。あるいは、国内の研究成果を社会学者同士がお互いにあまり認め合ってないのかもしれません。

ひょっとしたら、日本の社会学の本流は、欧米的な人間観・世界観に基づいて、欧米的な研究成果の延長線上に位置付けられることを求められているのでしょうか。しかし、日本に生まれ育った人が欧米的な人間観・世界観に染まり切ることは難しいでしょうし、百数十年に渡る膨大な研究成果の原典を片っ端から読んでも、その文化的・社会的背景を深く理解することは難しいのではないかと思います。したがって、欧米の研究成果を規範としている限りは、欧米の亜流となるしかないのかもしれません。日本で社会学者として本流を歩んでいくことはとても大変なことだ、ということを示しているのかもしれません。

逆に、社会学を一から作り直すつもりで、欧米とはまったく異なるモノの見方で取り組んだ方が、優れた研究成果を出せるのではないかと思いました。


(2)顕在意識の担当範囲

ところで、欧米発の社会学は、欧米の知識層の人間観・世界観に基づいているのではないかという印象を受けました(これは社会学に限らないことかもしれません)。

ひとつめの特徴は、顕在意識の働きだけに注目して議論していることではないかと思いました。潜在意識の働きを過小評価しているのではないかとも思いました。これは、人間について論じるときも、社会について論じるときもです。

しかし実際には、人間の心の大部分は潜在意識にあると思います。顕在意識の役割はほんのわずかで、大きな方向性を決めたり、理屈をこねたりするくらいではないかと思います。近年の心理学の研究成果から見ても、ほとんどのことは潜在意識で処理・決定されて、顕在意識は追認しているにすぎないのではないかと思います。本当は顕在意識は観察者にすぎないのに、顕在意識が意思決定していると思い込んでいるだけではないかと思います。(現代の心理学の研究成果はとても面白いです)

喩えるなら、顕在意識は神輿に担がれているだけの存在ではないかと思います。実際には、ほとんどのことは担ぎ手である潜在意識が行っていると思います。顕在意識にできることは、気が向いたときに号令をかけるくらいのことではないかと思います。それなのに、顕在意識は自分の足で歩いていると勘違いしているのではないかと思います。(さらに喩えるなら、大阪城を建てたのは、号令をかけた豊臣秀吉か、それとも汗水たらして働いた人足か、というモノの見方の違いかもしれません)

顕在意識と潜在意識の役割を捉え直した上で、改めて人間観・世界観を構築して、そこから社会学を再構築していくと、まったく違った世界が開けてくるのではないかと思いました。


(3)顕在意識の理解力

ふたつめの特徴は、顕在意識で認識できる範囲だけで議論していることではないかと思いました。

人間も世界も宇宙も、本当はとても複雑な存在だと思います。ミクロに見れば、いずれも顕在意識の理解力を遥かに超えた複雑さを持つ存在だと思います。特別な視点からマクロに見てはじめて、人間の顕在意識の理解力の範囲内にようやく入ってくるような、そのくらい途轍もなく複雑な存在だと思います。

逆に言えば、顕在意識はとても非力な存在だと思います。どんなに頑張って理解しようとしても、部分的で、表面的で、間違いだらけな理解とならざるをえないと思います。それを前提として、顕在意識と付き合っていく必要があると思います。(ここでの顕在意識は「理性」と言い換えてもよいかもしれません)

間違って顕在意識(理性)を過信してしまうと、短期的には大きな成果が出たように見えても、長期的には大きな混乱を引き起こすことになるのではないかと思います。


(4)顕在意識の限界

このように、欧米発の社会学は(あるいは学問全般は)、顕在意識(理性)をとても重視しているように思います。その結果、社会学(もしくは学問)の対象が単純化されて、成果を出しやすくなっているのかもしれません。その一方で、顕在意識の能力の限界から大きな制約を受けているのではないかと思います。

先日書いたことの繰り返しになってしまいますが、現代的な方法論の大きな特徴は、根本的な『原因』を追求することを忘れて、『結果』にすぎない現象だけを分析してすべてを理解したつもりになっていることではないかと思います。

短期的に見れば、このような方法論は大きな威力を発揮することと思います。『結果』に直接影響を与えている事柄にだけ注目しているからです。目の前の現象を一時的に改善するためには、とても効率的な方法論ではないかと思います。

しかし長期的に見ると、事態を撹乱させるだけではないかと思います。根本的な『原因』を理解することなく系に介入すると、想定外の事態が少しずつ少しずつ広がっていくと思うからです。しかも、系が一旦乱れると、回復は容易なことではないかもしれません。残念ながら、これはすでに様々な分野で起きていることではないかと思います。

喩えるなら「ゆでガエル」のような状況になってしまいやすいのではないかと思います。熱湯になりつつあることに気付くのは容易なことではありませんし、仮に気付けたとしても、熱湯を常温に戻すのは簡単なことではありません。

このように、顕在意識(理性)にできるのは、暫定的・近視眼的・局所的・短期的な方法論だけではないかと思います。それを忘れて顕在意識(理性)が力まかせに張り切った結果、あちらこちらで行き詰まりを見せているのが現代の姿ではないかと思います。


(5)潜在意識とつながる

私は後遺症で、「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」な状態となりました。発症前は顕在意識の範囲内にあったはずの脳力が、発症後は顕在意識の範囲外に出てしまったものが少なくありません。

そのため、潜在意識のどこかに隠れてしまった脳力と、いかにしてつながるかは、リハビリの大きなテーマとなっています。

いつもそのような視点で顕在意識と潜在意識を見つめているので、ついつい顕在意識(理性)の限界について論じたくなってしまいます。顕在意識の脳力が豊かな人から見たら、摩訶不思議な視点に見えるかもしれません(笑)