法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

苦しみの同志

(1)因縁果

私は、生まれてこのかた体験してきたことは、私自身の内面の鏡ではないかと思っています。

仏教風に言えば、因果の法則だと思います。私の中に『因』があるからこそ、目の前に『縁』が現れて、化学反応を起こして『果』を生ずる。その繰り返しの中で生きてきたのではないかと思っています。

従って、あんな体験をした、こんな体験をした、と書くことは、私自身の内面の暴露にあたるのではないかと思っています。すばらしい体験は欲望の現れかもしれませんし、とんでもない体験は悪業の現れかもしれません。読む人が読めば、私の内面が手に取るようにバレているかもしれません。

いずれにしても、自己を中心に置いて、塀の穴から世界を観察しているような気持ちでいるようでは、(言い換えると、自己中心的な殻に閉じこもっているようでは)、この世の六道から抜け出すことは難しいだろうなと思います。


(2)バグ入り危険

ではどうしたらよいか、今はまだわかりません。が、、

まずは、自己を取り囲んでいる堅牢なワクを取っ払いたい。否、柔らかくしたい。です。

どうやら私は、精神的な「危機」を察知すると自己防御機能が働いて、殻の中に閉じこもるべくワクがギュッと縮小するようなのです。その結果、ワクの中にいる「自己」が強烈に締め付けられて、誤動作しまうようなのです。

おそらく、実際には「危機」でないのに激烈な「危機」だと誤認識してしまうバグがあります。また、ワクが「自己」の限界を無視して猛烈に縮小するバグがあります。さらに、「自己」がワクに締め付けられると、ありえない誤動作をしてしまうバグがあります。

おそらく、心の奥底に途轍もない心の傷が潜んでいて、激しいバグを作り出しているのだと思います。その心の傷は記憶の彼方にあるようです。そして新たな心の傷を次々と作り出しているようなのです。大元の心の傷がいつからあるのか、生まれる前からあるのか、私にはわかりません。

案外と「大山鳴動して蟲一匹」程度のものかもしれません。その心の傷に光を当てることができたなら、スッと消えてしまう程度のものかもしれません。それでも、心の中では小さいながらも重要な位置にあるのではないかと思います。そのため、途方もない苦しみの原因となっているのではないかと思います。


(3)苦しみの同志

大変失礼ながら、心の中に深刻なバグを抱えている人は世の中にはたくさんいらっしゃるのではないかと思っています。ご自身ではバグに気付いてないかもしれませんし、あるいはデバッグの仕方がわからず途方に暮れているかもしれません。

私自身、心に醜悪なバグを抱えている人間です。ですから、心に苦しみを抱えている人間同士が憎みあっても、何も解決しないだろうと思っています。それよりも、まずは自分自身を実験台にデバッグ方法を探求する方が、よほど重要だと思っています。(仮説→実験→考察→仮説→…のループを繰り返すのは、結構好きですし)

このように考えているので、広い意味での『アヒンサー(非暴力)』を重要な目標と捉えています。すなわち、肉体的な暴力も、言動による暴力も、心の中の攻撃的な思いも含めて、一切の攻撃性を私の中から消し去りたいと思っています。攻撃的な気持ちを抱くのではなく、心に苦しみを抱える同志として、ともにデバッグに励みたいと思っています。(もちろん、かなり難しいことではありますが…)


(4)淡々と

高校の「倫理社会」の教科書で読んで以来、心の中でずっと引っかかっている言葉があります。

「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」(マタイによる福音書 第5章 第39節)

仏教風に言えば、『因』と『縁』が出会って化学反応を起こして『果』が生じた状況だと思います。あなたの『因』から生まれた『果』を潔く引き受けなさい、という意味かもしれません。怒りの感情をともなうことなく、淡々と受け入れなさい、という意味でもあるかもしれません。

では、そうやって生じた『果』が法令違反の行為であった場合にはどうすべか。倫理と法令の折り合いをどうつけるべきか。

怒りの感情がある間は、冷静に考えることができませんでした。気持ちが落ち着いてきた今思うのは、法令に従って淡々と処理すべきではないか、というものです。キーワードは「淡々と」です。結論はまだ揺れるかもしれませんが… 今はそんな風に思っています。