法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

非言語による思考

思い出してみると、私は小学校高学年の頃に言葉で考えるのをやめました。

言葉を使って考えると下手をすると言葉遊びになってしまうからでもあり(単語の意味の広がりに引っ張られて思考が混信してしまうからでもあり)、また言葉を使わないで考えた方が高速処理できるからでもありました。(10歳頃ってそんなことを考える年代でもあるんですよね)

その影響からでしょうか、小学校高学年で習った日本史の年号は語呂合わせで覚えているものが多いですが、高校で習った世界史の年号は数字のまま覚えているものがほとんどです(もうだいぶん忘れましたが)。語呂合わせでの記憶は、全般的に苦手です。技術の世界には定数はたくさん出てきますが、数字のまま覚えてます。


そのような訳で、発症前は思考の際に言葉を使いませんでした。しかし、発症後は言葉を使うことがよくあります。

「おやおや宗旨替えしたのかな」と思ってよくよく観察してみると、どうやら言葉で考えているのではなく、言葉を使って思考の実況中継をしているようです。おそらく、非言語で思考したことを一旦言語化することで、理解しやすくしたり記憶に残りやすくしたりしているのではないかと思います。

(喩えるなら、推理ドラマのクライマックスで、主人公が推理内容を独白しているシーンのような感じではないかと思います)

そのため、一時はひとりごとが多くなってました。しかし最近は少しずつ独り言が減っています。リハビリが進んで、わざわざ言語化しなくても理解したり記憶したりできる範囲が少しずつ広がってきているのではないかと思います。


小学校高学年の頃に言葉による思考を捨ててしまったので、今更言葉による思考を取り戻すのは難しいのではないかと思います。これから思考能力が回復するにつれて、言葉による実況中継が段々と不要になって、非言語による思考へと戻っていくのではないかと思います。

非言語による思考ばかりしていたので、読み書きは音声処理ではなくて記号処理という側面が強いです。音声言語を使う対話能力の回復が遅いのは仕方がないのかもしれません。