法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

真冬の白瀬矗

昨日は体を冷やしてしまったところを、ストーブの火力に助けてもらいました。普段使っている暖房器具(電気座布団+電気湯たんぽ×2袋+電気毛布)とは段違いの暖かさでした。喩えるなら、お日様とお月様くらいの違いを感じました。これだけ暖かいのであれば、ストーブが普及価格で出回り始めた頃(50年か100年か前)には垂涎の的だったのではないかと思います。

子どもの頃、南極探検家の白瀬矗(しらせ・のぶ)のエピソードを聞いたことがあります。なんと、冬でも北側の寒い部屋で暖房を使わずに薄着で過ごしていたそうです。子どもの頃は寒さを我慢しているのかと思ってました。しかし今は違う風に捉えています。極地探検を目的として若い頃から熱産出能力を高める工夫を続けていたのではないかと思います。そのため日本の真冬の気温程度なら快適に過ごすことができていたのではないかと思います。(当時の日本の範囲は今より随分広かったと思いますが、どこに住んでいた頃のエピソードかしら…)


※蛇足ながら、いわゆる苦行も本来は苦痛を耐えることが目的ではなく、正しく修すれば心身が変化してやがて快適に行ずることができるのではないか、その変化を目的としているのではないかと最近思うようになりました。


考えてみると、人体の働きのうち、顕在意識から直接見えるのはごくわずかです。ひとつひとつの細胞の働き、その組み合わせとしての組織の働き、臓器の働き、そして総体としての人体の働き。そのほとんどは顕在意識から認識することはできません。

顕在意識から認識できるのは、「ご飯食べよう」「○○に行こう」「○○を買おう」など、ものすごく大雑把なことだけです。大雑把なことを思うだけで、細胞ひとつひとつが適切に絶妙なタイミングで動作して、顕在意識の目的が達成されます。なんだかとってもすごいなと思います。

そんな風に考えると、自分の体は、本当に自分なんだろうか、と思えてきます。本当は、顕在意識は肉体に間借りしているだけの、ちっぽけな存在なのかもしれません。もしかしたら、地球と人類の関係と似ているのかもしれません。