法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

すごいから愛するのか

道徳の教科書で、「国や郷土を愛する」というテーマで、国や郷土のよいところを探してみましょう、というのがあるそうです。

郷土のよいところを探すこと自体は、とてもよいことだと思います。そしてきっと、人によって全然違うものを見つけてくることと思います。例えば山里であれば「○○さんちのナス、とってもおいしい」「裏庭から見える夕焼けが大好き」「○○から見える川がとてもきれい」「お寺の○○堂がかっこいい」「○○さんとおしゃべりするのは楽しい」などなど。みんな全然違う視点からよいところを見つけてくると思います。正解がないのがよいと思います。

そして、よくないところを偏見なく探すことも大切だと思います。「幹線道路をクルマがビュンビュン走ってて怖い」「○○さんちは庭が荒れてる」「川遊びできる場所が少ない」などなど。みんな全然違う視点から探して、正解がないのがよいと思います。

どちらでもないところも見つけるとさらに面白いと思います。「烏(黒)も鷺(白)も鳶(茶)もいる」「田畑が広がっている」「山に囲まれてる」「川が流れてる」などなど、なんでもよいと思います。

そうやって探した、よいところ、よくないところ、どちらでもないところ、みんなまとめて郷土の特徴です。よいところだけを残したり、よくないところだけを捨てたりすることはできません。みんなまとめて郷土です。そんなたくさんの顔を持つ郷土を大好きになる。それが郷土愛だと思います。

そのような郷土愛を前提として、これからの郷土のことを考えて行動するのも郷土愛だと思います。

これは家族愛でも同じだと思います。仲間同士でも同じだと思います。また、国を愛する心、地球を愛する心、宇宙を愛する心でも同様だと思います。

すごいから愛するのではなく、あなたがいるから愛する。そんな無条件の愛を教えるべきではないかなと思います。

(標語としては、デカルト風に「我愛す、故に我あり」、サティシュ・クマール風かつマザー・テレサ風に「君あり、故に我愛你」、などがよいのではないかと思います)


仮に「すごいから愛する」が当たり前になってしまうと、逆に「すごくないから無視する」も当たり前になってしまうのではないかと思います。

「すごい」の基準は人それぞれだと思いますが、仮に「社会的な成功がすごい」とするならば、社会的に成功した人を厚遇して、社会的に成功しなかった人を冷遇する社会になりかねません。否、すでにそうなっているかもしれません。

果たしてそのような社会は「すごい」社会なのでしょうか。

それよりも、「すごい」の基準が多様である社会、すごくなくてもちゃんと生きていける社会の方がより理想的ではないでしょうか。

実のところ「すごい」かどうかなんて、どうでもいいと思います。

それよりも、「我愛す、故に我あり」や、「君あり、故に我愛你」の方がずっと大切だと思います。


いつの頃からか「日本はすごい」という話を目にするようになりました。日本はすごいと思うこと自体は一人一人の自由で、それ自体は悪いことではないと思います。

しかしマスコミなどを通して「日本はすごい」と聞くとき、どうもハリボテなニオイがしてしまうのです。「なんかよくわからなけど、とりあえず日本はスゴイことにしておこう。スゴイ日本に住むオイラもスゴイのだ。だからスゴイ日本を讃えるのだ。」、そんな「(はりこの)虎の威を借る狐」のニオイがしてしまうのです。(私の考えすぎかもしれません…笑)

だから、郷土を見る目、日本を見る目、世界を見る目、アートを見る目、などなどの基準(モノサシ)は一人一人の心の中で育てて欲しいと思っています。テレビとも教科書とも違う、一人一人の独自の目で見て、「○○はすごい」と思うのはとても素晴らしいことだと思います。

だからと言って、すごくないものを軽蔑するのは、また違うと思うのです。それは他の人にとっては素晴らしいものかもしれませんし、誤解しているだけかもしれませんし、あるいはシワ寄せを受けて苦しんでいる姿かもしれませんし。なぜそうなっているのか、という視点を忘れてはいけないと思います。

小学校の道徳の教科書は、そういう視点で作られるべきではないか。そんな風に思ったところから書き始めたのが今日の作文でした。