法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

遠山郷の霜月祭りと遠山氏の慰霊

南信州遠山郷には「霜月祭り」と呼ばれる湯立神楽が伝わっています。このお祭りでは、江戸時代初期まで領主だった遠山氏の慰霊も行われているそうです。

遠山氏がいつから遠山郷を支配していたのは定かではないそうですが、戦国時代には、南信州という場所柄から、西暦1553年に武田信玄に服属し、武田氏滅亡後は西暦1585年に徳川家康に服属し、大坂の陣(西暦1614年末〜1615年半ば)に徳川方として参戦したそうです。あの時代に武家として生きていくのは大変だったのではないかと思います。(参考:遠山氏の歴史

ところが、大坂の陣のわずか3年後、西暦1618年に領土を没収されてしまったそうです。領主が相次いで亡くなられたり、領民の一揆が起きたり、相続争いが起きたりと、激動の3年間を送った結果のようです。

これは想像ですが、遠山氏にとって大阪冬の陣・夏の陣と半年間で2回も参戦することはとても容易なことではなく(特に夏の陣は農繁期と重なるのです)、商人から不利な条件で莫大な借金をしたり、領民を兵士として無理矢理駆り出したりしたのではないかと思います。ところが参戦後、領民には十分な恩賞を出せず、それどころか高利の借金返済のために重税を果たさざるを得ず、領内でも城内でも不穏な空気が漂っていたのではないかと思います。

その後、遠山郷で実際に何が起きたのかは存じ上げません。

ただその結果、元領主の祟りを恐れて霜月祭りで遠山家の慰霊を行うようになり、それから400年経ったいまも遠山家の慰霊が続いているそうです。

もしかしたら、当時は全国各地で同じようなことが起きていたのかもしれません。戦国大名征夷大将軍の思惑ひとつ、重臣の忖度ひとつで、全国各地の領主や領民の運命が大きく変わっていた時代だったのかもしれません。地質学には「斉一説」と「激変説」があるそうです。いつの時代にも、人間の歴史には「激変」はつきものなのかもしれません。もちろん現代にも… しかも頻繁に…

遠山郷中央構造線沿いに位置していて、信州三大秘境のひとつに数えられているそうです。私は通りすがりの旅人程度の知識しかなく、上記の想像には何の根拠もありません。どちらかというと三文小説用のネタと思っていただけますと幸いです。

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