法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

ポンコツな暮らし

私は寒い時はいつも暖房器具の真前で、背中を向けて正座して作業します。腎臓付近を温めるためです。血液は必ず定期的に腎臓を通るので、血液が腎臓で濾過されるたびに温められて、その血液が全身を隈なく巡るうちに全身が温まるという寸法です。また、血液が全身を巡って腎臓に戻って来る頃にはだいぶん冷えてますので(熱交換の結果です)、見方によっては、血液は腎臓の冷却液であり、全身の皮膚は放熱板であると考えることもできます(すなわち水冷式です)。そのため、暖房器具の真前に座っていても腎臓周辺が熱く感じることはありません(姿勢を崩すと熱く感じることがあります)。なお、暖房器具との距離を測ったことはありませんが、熱量最小で20〜50cmくらいではないかと思います。快適な距離は気温によって変わります(体の放熱量に見合った距離が快適です)。

意外に思われるかもしれませんが、私の場合は、暖房器具をつけて、その真前に座った直後から、しばらく息が苦しくなります。おそらくですが、腎臓周辺が温まると、付近の内臓の活動が活発になって酸素消費量が上がるのではないかと思います。ところが腎臓から少し離れた肺臓が十分に温まるまで少し時間がかかるため、酸素消費量に見合ったガス交換ができるようになるまで少し時間が必要です。それまでの間、息が苦しくなって、深い呼吸が必要になるのではないかと思います。肉体がポンコツなお蔭で、実体験を通して人体の仕組みを少しずつ学んでいます。(例えば、脳の酸素消費量が結構多いことも実体験の中で学んでいます)

なお、私の場合は暖房器具の真前で、背中を向けて正座するとちょうど腎臓が温められますが、暖房器具や体格によって適切な座り方は変わると思います。


肉体がポンコツな人は、日々の暮らしぶりが常識に収まらないだけでなく、人様や社会との関係も常識に囚われない体験を色々とさせてもらえます。

例えば、私はこんな状態だ、あんな状態だと正直に申し上げても信じてもらえないことが多いです。なんとなくですが、私のことを要注意人物、もしくは息をするように嘘をつく悪徳人物だと思っておられる方はたくさんいらっしゃるようで、表情、言葉、態度など、様々な形で不快感や侮蔑感を伝えてくださいます。「いろいろ噂を聞くけど私は気にしない」とドヤ顔で恩を売られたこともあります。また、親切心からか懲らしめようとする方も時々いらっしゃいます。できないと申し上げていることを敢えて強制的にやらせて、あまりの辛さにに音を上げると、ますます強圧的になって…。おそらくは、行き当たりばったりの嘘ばかりついてその場を切り抜けようとしている卑怯者のように思われているのではないかと思います。幸か不幸か、2つの病気の後遺症の合わせ技で常識外れの症状を持ち、それに対して(おそらく)常識外れのリハビリと療養を続けているので、そんな風に思われるのは仕方ないんだろうなと思います。

また、後遺症のため私は口頭での聞き取り能力が低く、考えを伝える能力も低く、理解力も記憶力も低いです。頭の回転も人様より遅いです。そのため、対面した方々からは莫迦と思われることが多いのではないかと思います。だからでしょうか、なんとなくですが、見下されてるというか、軽くあしらわれるというか、耳を貸してくれないというか、そんな態度で接せられることがあります。一所懸命に伝えようとしても、面倒臭そうな態度で聞いて、結局侮蔑されて終わったり…。現代社会においては「生産性のない人」は軽く扱われることが多いのかもしれません。また、騙されたり、騙されそうになったり、ヤバい状況に追い込まれたり、ということもありました。莫迦と見做されながら社会で生きていくということは、常識外れの体験に恵まれるということでもありますので、いろいろとドキドキワクワクな体験ができます。

日々の暮らしは、リハビリと療養が中心です。暮らしの中で何ができて、何ができないかをひとつひとつ紹介することが難しいくらい、健康な頃とは随分と異なる暮らしぶりではないかと思います。とは言え、健康だった頃の記憶はだいぶん薄れているので、実際どのくらい違うのかは自分でもよくわかりません。もしかしたら、傍目には動きがスローなだけで普通の暮らしと同じように見えるかもしれません。しかし中の人から見ると、それぞれの動きの限界(速度やチカラや器用さなど)を意識しながら、回復してない機能は代替機能で補いながら、あるいは様々な工夫で乗り越えながら、限界値ギリギリの範囲でなんとか暮らしている状態です。作業内容も休憩も後回しも自由自在なマイペースの一人暮らしだからこそ、なんとか暮らしていけてます。

そんなこんなで、傍から見るとどう接してよいかわからない存在ではないかと思います。おそらく、健康な人の想像力を超えた症状を数多く取り揃えていると思います。ですから、ああかな、こうかな、と想像しながら接しようとすると、ほぼ大ハズレになると思います。私からすると、想像力を駆使する人よりも、無邪気な人の方が接しやすいです。無邪気な人は、健康な人と分け隔てなく接してくれて、こちらが言ったことをちゃんと受け取ってくれて、明るくて朗らかで。また、経験的には未就学の子供達も接しやすいです。幼い子供たちにとって、お友達によって出来ること出来ないことが大きく異なるのは当たり前のことです。だからでしょうか、私に何ができて何ができないのか、すぐに見抜いて、私にできることの範囲で遊んでくれます。私も無邪気な人になりたいです。

以上、なんとなくダラダラとした文章になってしまいました。この機会に記憶の範囲で日々の感想を記録しておこうと思い立ったものですから、長ったらしくてすみません。年度が変わったら次のステップに進みたいと思います。

私の生活は「毎日が日曜」に見えているかもしれません。しかし、「毎日が日曜」な暮らしをせざるを得ない人は、常識外れの症状を持ち、常識外れな体験をたくさんしています。「毎日が日曜」というのは、傍目に見えるほど楽園ではありません。なんちゃって、そういうお話だったことにしておこうと思います。


最近読んだ本より。

「怒っていいのは、先祖からのこの地に、不幸をもたらす者が居座ったときだけ。でも争うのではなく、時をじっくりかけてでも、その者にいつか必ずやお帰りを願え。とがっていては折れてしまう。訪れる者のすべてを、まず受け入れなさい。それが守礼の国沖縄だ」(石川雅之もやしもん」第三巻 p.215〜216 より)

その者にこころをほどいてもらえるともっといいだろうなぁ、私はこころをほどかれるべきひとなんだろうなぁと思いました。