法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

現代人はゴミ製造機

昨年梅雨明けからこれまで、大断捨離と称して所有物を手放してきました。お譲りしたもの、寄付したもの、リサイクル・ショップに買い取ってもらったもの、ゴミとして出したもの、燃やしたもの。この中で分量として一番多かったのは、ゴミだと思います。人様に再利用していただけるくらい状態のよいものは限られていたからです。 (その次に多かったのは譲渡だと思います、家具や書籍などです)

考えてみると現代人はゴミ製造機だと思います。お店でせっせとゴミの材料を買ってきては、日々の暮らしの中で懸命にゴミを作り出しています。工場ではゴミの材料がドンドン作られています。街ではゴミの材料が大量に売られています。

これって、何だかすごく変です。いつの間にか社会全体がゴミを大量生産することを目的としてしまったかのようです。大量消費社会というよりも、大量ゴミ生産社会です。一人一人が消費者というよりも、一人一人がゴミ生産者です。現代建築は大量の瓦礫を生み出します。ゴミを生産するために社会全体が一致協力しているかのようです。

本来なら、工場は宝物を作るところだと思います。お店は宝物が売られているところだと思います。そして家々は家族が大切に思う宝物だけが並んでいるところだと思います。人々は宝物を大切にしたり宝物を生み出したりしながら暮らす方が遥かに幸せだと思います。そんな社会に生まれ変われるといいなと思います。

そんなことを書きながらも、今日もたくさんのゴミを生産してしまいました。

所有物の片付けはもうしばらく続きます。


包装容器のように数時間から数十時間の後にはゴミとして廃棄されるものもあれば、電気製品のように数年から数十年でゴミとして廃棄されるものもあります。ものによって寿命は様々ですが、身の回りの多くのものはゴミ予備軍だと思います。現代人は、ゴミ屋敷ならぬ、ゴミ予備軍屋敷に住んでいるようなものだと思います。(これは昔の人が言う「諸行無常」のひとつかもしれません)

所有物の中で本当に大切にしているものはどのくらいあるかと考えてみると、実はあんまり多くないのではないかと思います。私などは後遺症の影響で一日にできることは人様よりずっと限られているので、ただ置いてあるだけのものがいかに多いか…。経年変化でやがてゴミとして捨てざるをえないものがいかに多いか…。それに気づいたときは愕然としてしまいました。

現代人は暮らしのサイズを大きくしすぎているのではないかと思います。大きいこと、多いことはよいことだと思っている人が多いのかもしれません。あるいは見栄を張るために一所懸命に暮らしのサイズを大きく見せているのかもしれません。

しかし逆に、暮らしのサイズを今よりひとまわり小さくした方が、ゴミ予備軍のメンテナンスから開放されて、大切なものだけに囲まれるようになって、幸せをより実感できるようになるのではないかと思います。私はそういう方向性に駒を進めることにしました。

とは言いながら、本や機材に囲まれた暮らしに戻りたいという気持ちも、今もって心のどこかに残っているようです。そんな気持ちを、たまにひょっこり思い出すことがあります。しかしながら、後遺症で本を読みこなせなくなり、機材を使いこなせなくなったからこそ、本や機材を手放すことにしたのですから、、そういう気持ちは懐かしさを追い求めるだけの一種の「懐古趣味」として残っているのだと思います。生前整理はどうしても若干の寂しさを伴ってしまうものなのでしょうね。