法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

できること・できないこと

数年前のふたつの病気の後遺症の影響で、私のできること・できないことの組み合わせはやや独特なようです。そのため、周りの方々が「あれはできないだろう、これならできるだろう」と何かと気を使ってくださることと、私自身が「あれはできないけど、これならできる」と言うことが、結構すれ違ってしまってます。

だからでしょうか、周りの方々が色々と気を使ってくださっても、「いえいえ、そのくらいならできます」ということが結構あります。そうすると、「なんだ、実は元気じゃないか。大袈裟に言ってるだけで、本当は元気なんだろう。」と思われてしまいがちなようです。

一方で、私にできないことをお願いしても、「そのくらい自分でやれよ、甘えるな。」と思われてしまうことが多いようです。そのため、とても困っているときでも、まず取り合ってもらえません…。そう言うことが続くと、できないと言っていることを無理矢理やらされたり、時には激しい侮蔑の表情を向けられたり、嫌悪の言葉を投げつけられたりすることもあります。

このようなことが繰り返されるのは、お互いにとって幸せな状態とは言い難く…、やがていつしか引籠りを目指すしかないと思うようになってしまいました。


ひょっとしたらなのですが、世の中の多くの人は、周りの人をカテゴリー分けして見ているのではないかと最近思っています。そこで、まずは私を「病人カテゴリー」に入れようとしたけど、どうも違うらしいと言うことになって、いろんなカテゴリーを試して、最後に「大嘘つきわがままカテゴリー」に入れられたのかもしれないなと思ったりしています。

しかし、症状は一人一人違いますし、適切なケア方法も一人一人違います。単純なカテゴリー分けでは、そこから漏れてしまう人は私を含めてたくさんいると思います。

聞くところによると、現代日本には引籠りは何十万人といるそうです。何かをきっかけに社会の中に居場所をなくした人が、それだけ沢山いると言うことだと思います。引籠りを選ばざるをえなかった理由は人それぞれだと思います。その理由をケアすることなく無理矢理社会に引っ張り出そうとしても、同じ結果が待っているだけだと思います。まずは一人一人の理由をケアすることが一番大切ではないかと思います。

今の世の中で大切なことのひとつは、カテゴリー分けをやめることではないかと思います。そして一人一人をきちんと見つめて、一人一人をありのままの姿で受け入れることではないかと思います。その小さな積み重ねが、「排他的な社会」から「共に生きる社会」へと現代日本を変えていくのではないかと思います。

私自身の経験を通して、そんなことを思ってしまう今日この頃でした。なんちゃって、やっぱり私は大袈裟な人かもしれません(笑)