法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

言葉の壁

先日の会議以来、脳の疲れがまだ取れてません。きちんと休憩してればよかったのですが、疲れているときほど判断力を失って無茶を重ねてしまうことが多く…、疲労状態を長引かせてしまうことがよくあります。

私が日常的に経験している「脳の疲労」は、2つ目の大きな病気(脳の病気)を発症するまでは経験したことのない種類の疲労です。この状態をどのように表現すれば健康な人(この症状を経験したことのない人)に伝わるのか、よいアイデアがなかなか見つからないので「脳の疲労」と表現しています。健康な人が「脳の疲労」を感じることは少ないと思いますが、仮に感じたとしても、それとはまったく別の状態です。かと言って私独自の言葉を作り出しても、話がまったく通じなくなるだけでしょうし…、正確にわかりやすく伝えるのはとても難しいです…

脳が疲労している状態で、さらに脳に過負荷をかけ続けると、「脳が炎症状態になった」と感じることがあります。体感的には頭の中の脳の辺りがジンジンすると言いますか、重くなったと言いますか、どう表現したらよいのかわからない状態になります。これを伝えるのに今は「脳が炎症状態」と言う言葉しか見つけられないでいますが…、おそらく体験したことのない人には意味不明な表現だと思います。

また、発症時にはそれまで経験したことのない激しい痛みを頭部に感じて床の上をのたうち回りました。その痛みを言葉で表現することはやっぱり難しいです。

言葉というのは、経験を共有している人どうし、方向性を共有している人どうしで使う分にはとても便利な道具だと思います。特に仲間言葉を上手に使うと、会話がスムーズにテンポよく進んでいきます。しかし、経験を共有してない人どうしで体験を伝えようとしたり、方向性を共有してない人どうしで方向性を伝えようとしたりした途端に、言葉が大きな障壁となって立ちはだかることが多いのではないかと思います。既存の表現を流用すると大きな誤解を招く可能性が高いですし、新たな表現を創作するとまったく伝わらない可能性が高いですし…。かと言って、言葉をまったく使わないで伝えることはもっと難しいですし…


そのような訳で、言葉で伝えようとしていることが相手にはまったく伝わらない、それどころかまったく別の意味で伝わる、そしてまったく信じてもらえない、ということを日常的に頻繁に経験しています。

実はこれは、私だけでなく多くの人が日常的に体験していることではないかと思っています。例えば世代間、男女間、立場間、地域間、民族間、宗教間…。日々の体験や発想が異なると、同じ言葉で全然違うことを伝えようとしていることはよくあることではないかと思います。そしてその違いに気付かないまま一生を終えることもよくあることではないかと思います。そのため、人が理解し合うのはとても難しいことではないかと思っています。ほぼ不可能ではないかとも思っています。

しかし、頭では理解し合えなくても心でなら分かり合えるのではないか、とも思っています。考える力よりも感じる力の方が人間としてより本質的ではないかとも思っています。そう言えば有名な映画の台詞にもありましたよね。

“Don't think. Feel.