法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

日本曹洞宗『修証義』

道元禅師は今から約800年前、鎌倉時代初期を生きた人です。道元禅師の書き言葉は、当時の僧侶の和語での書き言葉をベースとしながらも、独特の言葉遣いになっているものと思います。ですから現代人の語感のまま読んだり、うろ覚えの古語の知識を思い出しながら読んだりしたのでは、道元禅師が伝えたかったことは受け取れないのではないかと思います。特に私のような無知無徳の者が読んだ場合には、、道元禅師のメッセージを受け取るのは大変難しいことだろうと思っております。。

そう思いながらも、昨日1回、今日2回と合計3回、『修証義(しゅしょうぎ)』の拝読を試みました。『修証義』は道元禅師が残された『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』から抜粋編集して制作された経典で、曹洞宗では重要な位置付けにあるそうです。起草したのは明治時代の仏教学者・大内青巒居士とのことです。曹洞宗近畿管区教化センターの解説によると、『修証義』には曹洞宗の教えが体系的にまとめられているそうです。

昨日、今日と合計3回拝読を試みた感想ですが、『修証義』は曹洞宗の在家信徒に日頃の心掛けを伝えるための経典ではないかと思いました。曹洞宗の信徒向けの教えを知るにはよいかもしれませんが、道元禅師のメッセージを受け取ろうと思ったら『正法眼蔵』を読み込むしかないんだなとも思いました。(あとで Wikipedia の『修証義』の解説を見てみたところ「在家で実践できる受戒などを重視してまとめ上げている」と書かれていたので、当たらずとも遠からずな感想ではないかと思います)

私は道元禅師のメッセージには「いのちの躍動」を感じるので、もっと深く、もっとたくさんメッセージを受け取りたいなと思っております。道元禅師のメッセージを受け取るためには、あの独特の言葉遣いで伝えたかったことを受け取れるだけの感性が必要なんだろうなと思います。そのための近道などなく、『正法眼蔵』を読み込むしかないんだなと思いました。(が、すみません、全然読んでません…)

道元禅師ご自身はお釈迦様の教えのど真ん中を受け取ったと思っておられた方なので、宗派を立てるつもりはまったくなかったと記憶しています。まさか後々、日本曹洞宗の『高祖』と呼ばれるようになろうとは夢にも思っておられなかったことと思います。ですから「曹洞宗の教え」は、道元禅師が亡くなられた後に作られたものではないかと思います。そのため「曹洞宗の教え」と「道元禅師のメッセージ」の間にはどうしても乖離があるのではないかと思います。乖離の原因は、仏道に対する着眼点が異なるのかもしれませんし、在家信徒向けの教えと出家僧侶向けの教えの違いによるものかもしれませんし(小学生向けの教科書と大学生向けの教科書が異なるように)、道元禅師と後継者の方々の見解の相違によるものかもしれません。

私は仏教徒でも曹洞宗の信徒でもないため、まったくの無知をさらけ出して、大変失礼なことを書いているかもしれません。その場合は誠に申し訳ありません。