法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

おそらくこの世は「鏡(かがみ)」なのです

これは一般論ですが、リハビリというのは必要があるからしているのであって、暇潰しにしている訳ではありません。

同様に私が作文のリハビリをしているのは、必要があるからです。傍からどう見えるかは別にして、実際にはリハビリを必要とするレベルにあるからです。

(1)疲れている時には、脳が健康な人には想像がつかないくらい意味不明な文章を書いてしまうことがよくあります。

たとえば、夕方になると1日の疲れがだいぶんたまっていて、まともな日本語はなかなか書けません。往々にして、書いた本人ですら少し時間をあけただけで理解不能になってしまうような、日本語とは呼べないレベルになりがちです。疲れがたまっている中、それを理解可能な文章に書き換えていく作業はかなりのエネルギーを必要とする作業です。さらにそこから読みやすい文章に書き換えていく作業も、相当なエネルギーを必要とします。

しかし、社会復帰を考えると、疲れ具合によらず、また体調にもよらず、まともな文章を書き上げる能力はとても重要です。そのためのリハビリです。

(2)私は口頭での説明能力がかなり不足しています。脳が健康な人が想像できないくらいにいつも苦労しています。口頭では要件を上手に伝えられないので、代替手段として文章で伝える能力を十分に高めておく必要があります。

ご存知な方もおられると思いますが、私はちょっと複雑な話になると口頭では説明できなくなるので、お手紙を書いて持って行きます。お手紙を読んでもらおうと思ったら、平易な文章で簡潔にまとめないといけません。

内容について口頭で質問が出るようだとお手紙として失敗です(うまく答えられないからです)。読むのは面倒だから口で説明してくれと言われても失敗です(口頭ではうまく説明できないからです)。

目の前に私がいても、ちゃんとお手紙を読んでいただけるだけのクォリティーの文章を書けるようにならないといけません。しかもきちんと伝わるクォリティーで。

それを、もっともっと短い時間で、もっと安定したクォリティーで、体調が悪いときでも作文できるようにならないといけません。そのために相当な時間とエネルギーを使って作文のリハビリをしています。


これも一般論ですが、リハビリを必要としている人は、傍からは優雅にリハビリしているように見えたとしても、あるいは、なんでもないことをしているように見えたとしても、本人にとってはとても難しいことを相当な時間とエネルギーを使って繰り返し繰り返し練習しています。

ところが、症状が常識外れであればあるほど、そして不足能力が桁違いであればあるほど、世間の人からは症状はなかったことにされてしまいます。そして健康な人から数割引いた程度で扱われてしまいます。

しかし実際には数桁も能力が低いのです。その誤解のギャップを埋めるのは並大抵のことではありません。ときには、悪質な冗談を繰り返す人物と思われて、激しい怒りと侮蔑の感情をぶつけられることもあります。そんなこんなで、世間との関わりを断って引きこもりたくなることもままあります。

それでも生きていくしかありません。


おそらくこの世は「鏡(かがみ)」なのです。周囲で起きていることも、周りの人から投げかけられる言動も、私自身の鏡なのです。私の中に『因』があるからこそ、その『因』にふさわしい現象が手を替え品を替えやってくるのだと思います。だから鏡なのです。その現象が『縁』となって、日々様々な『果』が生み出されています。生きるとは、そのような『因』『縁』『果』の法則をまざまざと見せつけられることなのかもしれません。

ある意味で、この世は私自身の中にある『因』の精巧なホログラム映写機なのかもしれません。私ってこういう人なんだ、というのをまざまざと見せてくれるスーパー・リアリズムな劇場なのかもしれません。この世という超高性能なホログラム映写機を上手に利用すれば、私自身の中にある『因』をじっくり観察して、微調整したり、消したり育てたりすることができるのではないかと思います。そういう作業をするには、この世はうってつけの機能を備えた超高級スタジオ、超高級コックピットではないかと思います。

そんな風に考えると、この世で生きていくことは本当はとても贅沢な経験ではないかと思えてきます。仮に世間の価値基準で判断すると辛く悲しい状態であっても、逆に華やかで楽しい状況であったとしても、高性能なホログラム映写機が稼働しているんだと思うと見え方が全然違ってきます。いまここにある貴重な機会をみすみす逃す手はないのです。全感覚を研ぎ澄ませ、全身全霊をかけてすべてを感じ取る。それを通して自分の中の『因』を観じ、消すべきものは消し、育てるべきものは育て、微調整すべきものは微調整する。そして同時に、ホログラム映像の世界を楽しむ。その作業はとても興味深く、飽きることもなく、のめり込んでしまいそうになります。

そんな風に世間の価値観とは異なるモノサシを持って生きているので、ひょっとしたら傍からは幸せいっぱいに生きているように見えるかもしれません。まぁ…そうなんですが(笑)。そして同時に、「なんだ、仮病だったんだ、優雅に暮らしてるじゃん」と思われやすいのかもしれません。

諺で「瓜田に履を容れず、李下に冠を整さず」と申します。人目のあるところでは、もうちょっと辛そうに悲しそうに振る舞った方がよいのかもしれません。なんちゃって、そんな演技力は私にはありませんが…(笑)