法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

キリスト教の罪とは

先日、二人の牧師さんの対談本を読みました。私はキリスト教をどう理解すればよいのかずっとわからないでいましたが、その本を読んでようやくとっかかりを見つけたように思いました。ただし、あくまで私なりの理解の視点ですので、敬虔なクリスチャンから見ると誤解も甚だしい理解かもしれません…

キリスト教には「罪」という概念があります。一般には道徳的な罪を指すものとして理解されているようですが、新約聖書旧約聖書ともに、原典で使われている言葉は直接的には道徳的な罪を指す言葉ではないそうです。

新約聖書の原典はギリシャ語で書かれていて、「罪」は「ハマルティア」という言葉で表されているそうです。また、旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれていて、「罪」は「ハッタート」という言葉で表されているそうです。

どちらも「的を外す」という意味の言葉だそうです。神様に心を向けるべきところを、間違って神様以外のものに心を向けてしまっている状態。言い換えると「神を忘れた状態」、「神に背を向けた状態」を指す言葉のようです。すなわち、キリスト教の「罪」とは「神に背を向けること」自体であって、その結果として道徳的な罪が起きてしまう、という順番で理解すべきようなのです。

これは新約聖書の次の箇所の「第一のいましめ」に対応しているように思いました→マタイによる福音書(口語訳)第22章第36〜40節より『「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。』

すなわち、「第一のいましめ」に背くことが「罪」(ハマルティア、ハッタート)なのではないかと思いました。

また、キリスト教の「罪」は、8ヶ月前に投稿した「善悪はありやなしや」という記事における『悪』と同じ意味に理解できるのではないかとも思いました→『敢えて言えば、意識が「いのち」に対して真っ直ぐに向かっている状態が『善』で、意識が「いのち」から大きく離れている状態が『悪』だと思います。』

この理解に立つと、上述のマタイによる福音書に書かれた「第一のいましめ」も、このような意味での『善』の勧めだと理解できるように思います。

これをとっかかりにすれば、キリスト教を私なりに少しは理解できるようになるかもしれないと、今ちょっと期待しています。


ところでこの本は、(聖職者姿ではなく)普段着姿の牧師さんによる対談番組を書籍化したものだそうです。リスナーさんからの質問を元に、(説教ではなく)リスナーさんと対等な目線で対談が繰り広げられています。ですから、質問への回答というよりも、質問をテーマにした雑談と言った方がよいかもしれません。その雑談の中に、リスナーさんの心に響く言葉が散りばめられていたのかもしれません。

その対談の中で「罪」という言葉に関する蘊蓄(うんちく)が少しだけ語られました。もしかしたら頭の中では次に話すことを考えながら、とりあえず時間繋ぎで語られた蘊蓄だったのかもしれません。しかし、この数行が私にとってのキリスト教理解の重要な手掛かりとなりました。どうもありがとうございました。