法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

バージョン・アップダウン

ソフトウェアに限らず、様々な製品や概念にバージョン番号が付与されることがあります。かく言う私も、オギャーと生まれてからこの方、何度かメジャー・バージョンアップして、何度もマイナー・バージョンアップしているのではないかと思います。

幼い頃は、バージョン番号が上がるたびにあらゆる性能が向上してました。青年期には肉体的な衰えを見せつつも、他のほとんどの面では性能が向上していたのではないかと思います。壮年期には、バージョン番号が上がるたびに、性能向上と性能劣化が相並ぶようになりました。

そして、数年前のメジャー・バージョンアップの際には、ほとんどすべての性能が桁違いに劣化してしまいました…。それから療養&リハビリの日々を続けて、マイナー・バージョンアップのたびに少しずつ性能回復しています。

生き物である限り、ある時期(ある年齢)を過ぎると、総合性能は衰えていかざるを得ないと思います。それが徐々にやってくるか、一気にやってくるかの違いはあったとしても、いつかは衰えていくものだと思います。それが年齢の割に早くやって来たとしても、個人差の範囲、個性の範囲だと思います。

仮に総合性能が衰えていく日を迎えたとしても、なにかしら成長する部分は残っていると思います。それは精神的な側面かもしれませんし、長年の経験の蓄積によるものかもしれません。成長の内容は人それぞれだと思いますが、なにかしら成長する部分が残っている限り、バージョンアップは続いていると思います。仮にそれが傍からは見えないものであったとしても、はたまた傍からは後退したように見えたとしても、本人にとってのバージョンアップは永遠に続いていると思います。

かく言う私は本当にバージョンアップしているのでしょうか…。長年の療養&リハビリのお蔭で、発症当時には信じられないくらい回復しているのは間違いありません。しかしそれより何より、一番成長しているかもしれないなと思うのは、我欲が薄くなってきていることかもしれません。一生の中で、激濃から極薄まで、様々な我欲度を経験できると面白いでしょうね。


実は私は、私自身のバージョンアップよりも、様々な心境や環境を体験することに興味があります。退化ばかりになったとしても、我欲が肥大化したとしても、そんな状態を体験することに興味があります。いろんな状態を体験したからこそ見えてくるものがあると思うからです。

世間の幸せの基準は我欲が『中辛』くらいの人を想定しているのではないかと思います。我欲が『激辛』の人には物足りず、我欲が『薄味』の人には世知辛い、そんな基準ではないかと思います。国民総幸福量(GNH = Gross National Happiness)という言葉がありますが、我欲がどのくらいの人に基準を置くかで、評価方法が随分と違ってくるのではないかと思います。ですから、人々の幸せを考えるためには、様々な我欲度を体験しておくことが重要ではないかと思います。自分の心だけが『綺麗』になったとしても、人々の幸せにはあまり貢献できないのではないかと思ったりしてします。

様々な我欲度の間を自由に行き来できたり、様々な煩悩の間を自由に行き来できたり。人々の幸せのためには、さらには世界の平和のためには、そんな心の能力が必要ではないかと思います。

なんちゃって、前半の文章に対する「ちゃぶ台返し」のような後半の展開となってしまいました、すみません…(笑)