法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

脳自体の性能よりも脳の使い方の方が遥かに重要

様々な資料の中から古いノートが見つかりました。一所懸命に勉強していた数少ない(笑)分野のノートです。当時も今もこの分野が好きなんだなぁ…。懐かしいけど廃棄します。ちょっと寂しいですが、遺品整理ですからね…(今の私の脳力では複雑すぎて理解できないのです…笑)

その合間に禅の本を開いてみました。わかったつもりになれるところもあれば(=出鱈目な誤解である可能性が高いのですが…)、文章自体がまったく頭に入ってこないところもあります…。私は愚鈍すぎて(アタマに頼りすぎるんだろうと思います)何十回、何百回、何千回と読んで認識の相転換を起こさないと理解できないんだろうなぁ…。それとも一生理解できないのかなぁ…

ノートを読んだり本を読んだりしていると、もっと理解したり考察したりできるといいなぁと思うのですが、、正直言って、今の私に何ができるのか、将来どこまでできるようになるのか、よくわかりません…

願わくば将来的には、論理的な複雑さを持つ内容も理解できるようになると嬉しいです。可能性はゼロではないと思うのです。単位時間当たりの処理量を抑えながら(私の脳は低速回転しかできないので…)、理解すべき対象を上手に分解して(一度に沢山は考えられないので…)、部分ごとに理解して、部分の関係(=全体構造)を理解して、改めて全体を理解する。複雑な場合は階層構造を多段にする。実はこれ、子供の頃から日常的にやってることなんですよね。私の脳の性能は元々あまり高くないので、どうすれば人並みに理解できるようになるか、子供の頃から工夫してきました。小学校高学年の頃に言語を用いた思考を捨てたのも、今から思うと単位時間当たりの脳の負荷を減らす(=言語処理を省略できる)効果が大きかったのではないかと思います。そんなこんなで勉強方法も理解方法も周りの人とは随分と違ってました。そういった様々な工夫のお蔭で、若い頃は分野によっては人並み以上の能力を発揮できたこともありました。

同様に、今の私の脳の状態に沿って上手に工夫していけば、、今よりもずっと複雑なことを理解したり考察したりできるようになるかもしれません。そして昔のノートを再び理解できるようになるかもしれません。そこまで回復したら幸せだろうなぁ…。想像しただけでもワクワクしてきました。

おそらくですが、脳自体の性能よりも脳の使い方の方が遥かに重要だと思います。仮に後遺症や病気で脳の性能がどんなに落ちたとしても、工夫次第で結構な性能を発揮しうると思います。自分の脳の状態に合わせてどれだけ工夫できるか?愛用者としての腕の見せ所だと思います。