法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

捨てていく生き方

昔々のノートを見ると、若かったなぁ、、一所懸命だったなぁ、、などと当時のことを思い出します。しかし今から思うと、当時は心に「着ぐるみ」を着て(=何者かに化けて)、求められていることを一所懸命に演じていただけではないかと思います。若かっただけに、はたから見ると「着ぐるみ」に着られている(笑)ように見えていたかもしれません…。義務感だけで「着ぐるみ」を着てたので、、どう頑張っても「着ぐるみ」姿は長続きしない運命だったんだろうなぁ…

今も昔も、生きるって何か全然わかってません。

昔々は、生きるためには様々なことを身に付けねばならないと思ってました。与えられたものを身に付け、求められるものを身に付け、周囲から言われるがまま求められるがままに生きるものだと思ってました。だから同時に、そんな生き方に対して大きく反発もしてました。その頃の生き方が心に「着ぐるみ」を着る生き方(=何者かを演じる生き方)だったんだろうと思います。

今は逆に、生きるためにはスッキリ捨てていかねばならないと思っています。捨てて捨てて捨て抜いたときに、心の底から湧き上がってくるもの。空っぽの心から瞬々刻々湧き上がってくるもの。それを大切にして、それが求めるものを学び、それが求めることを行う。そんな内発的な生き方に憧れています。そのためには、もっともっと広く大きな心を持たねばならないんだろうなぁ…と思います。そして執着心や煩悩をトコトン捨てていかねばならないんだろうなぁ…とも思います。そうしないと、内なる声を聞き間違えそうだからです。

例えば自宅に立派な庭があるとします。庭のお手入れを日課とし、庭をより広く、より立派に育てていくことを楽しみとする人生もあると思います。それとは逆に、庭を持たず、世界中の公園を庭だと思って暮らす人生もありうると思います。庭(公園)のお手入れにはボランティアとして時々参加する程度しかできませんが、その代わり世界中どこに行っても多種多様な庭(公園)を愛でることができますし、ボランティアとしてお手入れに参加することもできます。どちらが良いかではなくて、、かつては前者を目指していましたが、今は後者を目指しています。今は捨てる人生を目指すときなんだろうなぁと思います。

どこまで捨てることになるのか、自分でもまだまだわかりません。ドンドン捨てていけば、そのうち見えてくるのではないかと思っています。モノをたくさん捨てて、執着心もたくさん捨てて、ようやく少しずつ見え始めるのではないかと思います。片付け作業がゆっくりとしか進められないのは、心の整理をするためでもあり、また余韻を味わうためでもあるかもしれません。街歩きは心の整理にとても役立っています。バックパッカーとなって世界中を巡らなくても、街歩きには人生観を変えるパワーがあると思います。