法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

指導者と被指導者

分析心理学の創始者であるカール・グスタフユング1921年(大正10年)の著作「元型論」に次のような記述があるそうです。

人類の責任ある指導者が、十分広い視野を持って、少なくとも誤った指導を自らやめることができるほどになるためには、なおどれほどの絶望が必要であろうか。-元型論- (出典

はたしてこれは『指導者』個人の問題なのでしょうか?はたまた適切な『指導者』を選ぶ目のない民衆の問題なのでしょうか?

もしも前者だとしたら、『指導者』なる役職に権限と期待を与え過ぎていることがより大きな問題ではないかと思います。もしも後者だとしたら、少なくとも56億7千万年後の未来に弥勒仏が現れるまでこの問題は続くと思いますし、その先もまたさらに続くかもしれません…

私はこの問題の根本的な原因は、指導する人、指導される人、という役割分担にあるように思います。『指導者』なる役職についた人に全責任を負わせたり、おんぶに抱っこ状態になったりするのは、民衆の一人として潔い態度とは言い難いように思います。

民衆が人類の『指導者』として不適切な人物を選んでいるとしたら、その時代においては民衆に『指導者』を選ぶ目がないことを意味していると思います。人類の『指導者』に限らず、各地の行政や会社やグループの『指導者』にも不適切な人物が選ばれていて、あちらこちらで混乱が起きている可能性は高いと思います。

したがって、民衆が『指導者』を見る目を養うことは非常に重要なことだと思います。それと同時に『指導者』を含めてどんな役割の人でも間違いを犯すものだということを前提とした仕組みを構築する必要があると思います。これは人類全体に関わる組織から2〜3人の寄り合いまで、あらゆる組織で言えることだと思います。そして最終的には、指導する人、指導される人、という役割分担の存在しない仕組みを構築すべきだと思います。