法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

もとのその一

だいぶん前に何かで読んだのですが、古武術の型稽古では実は一番最初に習う型から奥義が示されているそうです。ところが初心者の段階ではその奥義が見えなくて、動きを表面的になぞることしかできないそうです。型稽古が進むうちに少しずつ体の使い方が変わってきて、最後の型を終える頃には奥義(=体の使い方)がはっきりと認識できるようになるそうです。そこまで進んで、改めてすべての型稽古を振り返ると、一番最初に習った型の奥深さが認識できるようになるそうです。それが単なる素振りであったとしてもです。もしかしたら、あらゆる『道』で同じことが言えるのかもしれません。

人生も同じで、オギャアと生まれた段階で、すでにこの世で生きるための奥義は示されているのかもしれません。しかしその奥義が認識できるようになるためには何十年もの人生体験の積み重ねが必要なのかもしれません。死の直前に人生を振り返ったときに初めて認識できることはたくさんのあるのかもしれません。

(私の勝手解釈ですが、、稽古とは最適解を身につけていく(実は体が見つけていく)行為であると同時に、不要な動きを大量に捨てていく行為でもあると思います。稽古とは動きの断捨離ではないかと思います。)

稽古とは 一より習い十を知り 十よりかえるもとのその一 (千利休の道歌

ところで、おそらく私は神秘体験をしたことがありません。神秘体験とは現代科学では説明のつかない体験であって、聖なる存在と出逢ったり一体化したりなどして、人生観・世界観・宇宙観に大変化を引き起こす体験を指す言葉ではないかと思います。私はかなりの頭デッカチ人間ですので、大変化を引き起こすような体験は滅多にありませんが…、現代科学では説明のできない体験なら幸いにしていっぱいあります。しかしそれはそれでそういうものだと思っているので…、どちらかというとこんな私でもこうやって日々暮らしていけていること自体が奇跡ではないかと思っています。

本当の奇跡は平凡の中にあふれていると思います。いまここでこうしていることこそが奇跡なんだと思います。だから奇跡を求めて心の旅をする必要はないと思います。ただ童話「青い鳥」と同じく、心の旅をしてはじめて目の前の奇跡が認識できるようになるという貴重な効果は期待できるかもしれません。もしかしたら上述の千利休の道歌と同じことがここでも言えるのかもしれません。