法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

荻原真(著)「西洋哲学の背骨」

荻原真(著)「西洋哲学の背骨」を読みました。お爺さんと高校生2人の架空の対話を通して、西洋哲学史上の重要な思想を紹介している本です。なかでもプラトンデカルト、カント、サルトルの4人が大きく取り上げられています。この本によると、西洋哲学はどう頑張ってもプラトン主義の呪縛から逃れられないでいるようです。

ところで、この本を読んで、西洋哲学は「思考」と「物質界(物質+時空間)」以外をすっかり無視することで成立しているのではないかという感想を持ちました。

より厳密に言うと、西洋哲学では『言語による思考』が神聖視されていて、『言語による思考』が創り出した「理想世界」と、『言語による思考』が解き明かした「理解世界」という2つの世界だけを考察対象としているのではないかと思いました。そして、この2つの世界以外は存在しないという仮定のもとに人間・世界・宇宙等の「認識体系」を組み上げているのではないかと思いました。

見方を変えると、西洋哲学は『言語による思考』が捉えられることだけを対象として、『言語による思考』が納得できることだけを材料として、『言語による思考』がデザイナーとなって作り上げられた認識体系ではないかと思いました。

その認識体系では、『言語による思考』が最高権力者となり、お気に召すものだけを重用して「理想世界」を構成し、お気に召さないけど存在は認めざるを得ないもので「理解世界」を構成し、存在すら認めたくないものを「理外世界」に追いやることで作り上げられた一種の階級型(カースト制度的)構造を取っているのではないかと思いました。そのため、排除された「理外世界」(アウトカースト)をじっくり観察すると、そこにはあらゆるシワ寄せが蓄積している可能性があるのではないかと思いました。このように『言語による思考』を最高権力者として崇め奉る姿勢は、古代ギリシャからローマ帝国へ、そしてキリスト教圏へと広がって、今日では世界中に普及しているのではないかと思います。

その結果、『言語による思考』が作り出した認識体系は理想化・神聖化されているものの、実態としては人為的で窮屈で迷路のような認識体系となってしまっている可能性があるように思いました。サルトルは「人間は自由という刑に処せられている」と言ったそうですが、本当は地図も羅針盤も失って迷子になってるだけではないかと思いました。サルトルは勇気を持って「王さまは裸だ」と声を上げたことで拍手喝采を浴びたのではないかと思いました。

以上をやや硬く表現すると、西洋哲学は本当は二元論ではなく、形而上、形而下、形而外の三階層からなるのではないかと思いました。無視されている形而外は西洋哲学の闇であると同時に、西洋哲学の未来へのヒントが詰まった輝く宝箱ではないかと思いました。

ところで、サルトルのいう「アンガージュマン(engagement、社会参加)」と、世界中で展開されている「Engaged Buddhism(社会参加仏教)」や「Socially Engaged Art」などの社会参加活動は、思想上の繋がりがあるのかどうか、ちょっと気になりました。