法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

脳のバグを突く

美術館に行ってきました。

一つ目の部屋には巨大な風景画が数点展示されてました。いずれの作品も近寄って見ると、草は草ではなく、葉は葉ではなく、花は花ではありません。しかし少し離れて見ると、草は生き生きとした草となり、葉はゆらゆら揺れる葉となり、花は可憐な花となります。そして風はそよぎ、雲は流れ、水面は輝き、鳥はさえずり、とても懐かしい風景が立ち上がってきます。この感覚はどこからやってくるのでしょう?

もしかしたら人間の脳は、視覚がとらえている映像をうまく解釈できない場合には、記憶の中から印象の近い映像を素早く掻き集めて、それらの記憶を元に目の前の映像を解釈し直してくれるのかもしれません。そのため脳がその機能を起動せざるを得ない状況に敢えて追い込むように絵を描くことで、高解像度の風景写真よりも遥かに生き生きとした風景が脳内に浮かび上がってくるのかもしれません。

思い出してみると、俳句や短歌も少ない文字数で見たこと感じたことを表現しなくてはなりません。ひょっとしたら人間の脳は、目の前の言葉が情報不足でうまく解釈できない場合には、印象の近い記憶を素早く手繰り寄せて、それらの記憶を元に目の前の言葉を解釈し直してくれるのかもしれません。そのため脳がその機能を起動せざるを得ない状況に敢えて追い込むように言葉を紡ぐことで、詳細な説明文よりも遥かに生き生きとした情景や情緒が脳内に浮かび上がってくるのかもしれません。

どちらの場合も、脳の認識能力にとって想定外の入力を敢えて与えることで、印象の近い記憶を組み合わせて臨場感あふれる情景や情緒を浮かび上がらせる脳の能力を上手に利用しているのではないかと思います(仮に脳がそのような能力を持っているならば、ですが…)。敢えて描き切らないことで、あるいは敢えて言い切らないことで、より豊かな表現力を手に入れているのではないかと思います。ある意味で「脳のバグ?を突く」技法なのかもしれません。なんだか面白いなと思いました。

このように考えると、アート作品は本質的に制作者と鑑賞者の共同作品であって、鑑賞者の心の中に浮かび上がってくる情景や情緒は一人一人まったく違っているのかもしれないと思えてきます。もしもそうだとすると、作品の評価は人によってまったく異なっていることは当たり前のことで、どんなに話し合っても評価の違いを埋め切ることはできないのではないかと思います。仮にそうだとしても、正直に評価の内容を語り合うことを通してお互いの共通点や相違点を深く理解し合うことができるのではないかと思います。もしかしたら、アート鑑賞会は参加者同士が深く理解し合うための素晴らしいツールなのかもしれません。

さて二つ目の部屋には両手で抱えることができそうな大きさの絵画が数点展示されてました。その絵画を見ているうちに、子供の頃に見た和風の絵画や造形作品から受けた印象を思い出しました。そして、もしかしたら絵画や造形作品には時代や地域ごとの『定型』のようなものがあるのかもしれないと思いました。きっと時代により地域により「○○風」と呼ぶべき暗黙の決まりごとがあって、その決まりごとの中で作品が制作・評価されていたんだろうなぁと思いました。

そのような決まりごと(もしくは『定型』)は、制約として足を引っ張るのではなく、むしろ感動の増幅装置として働いているのではないかと思います。だからこそ『定型詩』は何百年、何千年という昔から人気が衰えることがなく、音楽でも定番ジャンルの曲は愛され続け、踊りでも盆踊りやヨサコイをはじめ『定型』の踊りは人気が高いのだと思います。絵画でも同様に人々の心を打つ『定型』があるのではないかと思います。もしかしたら、感動の増幅装置である『定型』や『繰り返し』は「脳のバグ?を突く」技法のひとつなのかもしれません。

他の部屋の印象はまた改めて。様々なことを感じることができたとても印象深い作品展でした。