法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

機械は人間性への脅威となりうるか

果たして機械は人間性への脅威となりうるのか、人間の本体は何なのか、自問自答形式で書いてみました。


〔Q1〕人間の『本体』と『付属品』の境目はどこにあるのでしょうか?

例えば人間の服装について考えてみると、肉体が『本体』で服装は『付属品』にあたると思います。そのため、例えばマネキンが人間の服装を身につけたからといって、脅威を感じる人は誰もいないと思います。

それでは肉体労働・肉体作業など体力や熟練が求められる作業は『本体』か『付属品』かというと、敢えていうと『付属品』ではないかと思います。作業能力は鍛えたり場数を踏んだりして身につけていくもの(すなわち後天的な能力)だからです。そのため、工場の機械が熟練工並みの品質の仕事をこなすようになった今日でも、生活の糧を奪われる可能性に脅威を感じる人はいても、人間性に対する脅威を感じる人はいないと思います。大事なのは「どのように」作業をするかではなく、「どのような」作業をするか、だと思うからです。

計算能力、画像処理能力など、頭を使う単純作業についても同様に『付属品』だと思います。

実を言うと、肉体すらも人間の『本体』にとっては『付属品』だと思っています。人間の『本体』はもっとずっと奥にあると思います。人間の『本体』と『付属品』の境目がどこにあるかは、人間の知性ではわからないのではないかと思います。


〔Q2〕では、人間の存在そのものに対する脅威を感じるようになるのはどこからでしょうか?

不思議に思われるかもしれませんが、私は思考や感情も『付属品』にあたると思っています。人間の『本体』はもっと奥の方に位置していて、その『本体』が思考や感情を『本体』の周囲にまとわりつかせているのではないかと思います。

例えるなら、思考や感情は『本体』にとっては服装のようなものではないかと思っています。どのような思想を持つか、どのように思考するか、どのような感情を持つか、どのような情緒を持つか、そういったことは『本体』にとっての服装、例えるなら『ファッション』だと思います。『本体』はもっと奥にあると思います。

現代社会では『ファッション』(例えば思想や感情など)ばかりが注目されますが、本当は『本体』のあり方の方がずっと重要だと思います。『ファッション』は『本体』のファッション・センスの結果だと思うからです。

私はそのような考え方でいるものですから、囲碁や将棋やチェスで人間が人工知能に勝てなくなっても人間性への脅威は感じないでいます。むしろ、人工知能にもっともっと強くなってもらって、囲碁や将棋やチェスの世界をどんどんと切り開いていって欲しいと思っているくらいです。

機械の進化によって人類や地球が存亡の危機を迎えることはあるかもしれませんが、機械がどんなに進化しても人間性への脅威になることはないと思います。


〔Q3〕では人間の『本体』はどこにあるのでしょうか?

私もわかりません。きっと、肉体でもなく、思考でもなく、感情でもなく、もっともっと奥深いところにあると思います。人間の『本体』は機械では代用できないと思うので、すでに機械で代用できている能力、機械の方が優れている能力については『本体』ではないと思ってよいと思います。そうやって『本体』でない部分を捨てて、捨てて、捨てていった先にようやく人間の『本体』が見つかるのではないかと思います。そう考えると今まさに人類は『本体』を探す旅をしているのかもしれません。

おそらく、人間の『本体』は現代人の思考の盲点になっているところにあると思います。思考から見えるところにはないと思います。意外と仏教哲学の中にその答えが隠れているのではないかとも思います。

人間の『本体』が何かが見えるようになると、人生観も世界観も大きく変わって、より人間らしい暮らしができるようになると思います。そのときはおそらく一昔前の生活に戻っていることと思います。


上記では『本体』と『付属品』と書きましたが、『本体』と『道具』と書いた方がよかったかもしれません。また、上述の『本体』をあえて別の言葉で表現するならば『いのち』かもしれません。