法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

インクルージョン

私は数年前の病気の後遺症の影響で、療養・リハビリを中心とした生活をしています。お蔭様で発症直後の期待を遥かに超える回復ぶりを見せています。しかしながら普通の生活に戻るにはまだまだリハビリが必要な状態です。

機能回復の状況はかなり凸凹です。多くの人が難しいと感じることであっても、かつて慣れ親しんだことであれば期待以上に機能回復していることはいくつもあります。その一方で、多くの人が暇潰しにするような簡単なことでも、私にとっては恐ろしいほどの過負荷となって事後に1〜2週間ほど静養しなくてはならないことも沢山残っています。

そのため、症状を正直にお話しすると悪質なデタラメだと思われることが時々あります。友人・知人十余名がいる前で大声で罵倒されたこともあります。大声で嘲笑されたこともあります。何度お話ししても露骨に侮蔑と怒りの表情を向けてきて、できないと言っていることを無理強いする方も時々いらっしゃいます。好意的に見れば「このデタラメ人間の根性を叩き直してやる!」と思ってらっしゃるのかもしれません。

そのような方々は割合としてはほんの一握りなのですが、そのようなあまり気持ちのよくない経験、さらには辛い経験を繰り返すうちに、人と会う機会を極力避けるようになりました。また、人前では極力後遺症の話はせず「健康なふり」をするようになりました(常識外れの症状の人が、一般の人から「そこそこ健康だ」と思ってもらうことは、コツさえつかめば意外と簡単なのです)。

その一方で、ちゃんとお話を聞いてくださる方もいらっしゃいます。ある日のこと、私の境遇に深い興味を示してくださって、発症からの経過を根掘り葉掘り質問を重ねた方がいらっしゃいました。お話を続けるうちに目がどんどん輝いてきて、最後には「生きた奇跡だ」とおっしゃってくださり、別れ際には90度のお辞儀をしてくださいました。「人を見る目がみるみる変わる」姿を実地で拝見した貴重な体験でした。

しかしながら、今の私の症状も生き方も私にとっては日常のありふれた「当たり前」のことです。その「当たり前」なことを理由に見下されたり見上げられたり、涙目になられたり励まされたりするのは、今の私の度量では正直申しますとちょっと困惑してしまいます…。ですから、私にとっての「当たり前」を世間の「当たり前」のひとつとして受け取っていただけると嬉しいなぁ、といつも願っています。

何を「当たり前」と感じるかは一人一人違います。できることなら、「当たり前」のストライク・ゾーンからどんなに大きく外れていても、なんとか手を伸ばして「当たり前」のひとつとして受け取っていただけるとありがたいなぁ、といつも思います。そうは言いながらも、私自身も自分の「当たり前」のストライク・ゾーンから外れると上手に受け取れない人なので、、あまり高望みできる立場にないこともわかっています…(笑)

世の中にはいろいろな方がいらっしゃいます。ですから、一所懸命勉強して理解できる範囲を増やしていくことはとても大切なことだと思います。しかし一人一人の勉強時間は限られているので、理解できる範囲にはどうしても限界があると思います。その限界を突破するためには、理解できない方々をどう受け止めるか、理解できない方々とどう付き合っていくかを、体験を積み重ねながら学んでいくことが大切ではないかと思います。実社会で生きていく上では、勉強を重ねることよりも体験を重ねることを重視した方が、より応用が効くのではないかと思います。

世の中には本当にいろんな方々がいらっしゃいます。お互い理解し合えないことを前提にした方が、感性がより研ぎ澄まされて、言葉をより適切に選ぶようになって、却ってお互いにより深く理解し合えるようになるのではないかと思います。

また、世の中には様々な信念や錯誤や心の傷を持つ方々がいらっしゃいます。お互いに受け入れられる範囲に限界があること、その結果お互いに受け入れ合えない可能性があることを前提にした方が、適切な距離関係を取りやすいのではないかと思います。受け入れられないからと言って排除し合うのではなく、敬意を払いながら共存する方向に進んだ方が、お互いにとって幸せな暮らしにつながるのではないかと思います。

受け入れられる範囲を超えた違いを持つ人をどう受け止めるか、逆にどう受け止めてもらうか。引き籠もりや分断以外の方法はないものか、共に暮らしていく方法はないものか。これは今の私にとって大きなテーマの一つです。