法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

ダライ・ラマ14世(著)「ダライ・ラマの般若心経: 日々の実践」

ダライ・ラマ14世(著)「ダライ・ラマの般若心経: 日々の実践」を読みました。この本を読むのはこれで3回目です。般若心経のエッセンスがとてもわかりやすく説明されています。

この本は3部構成で、第1部には平成22年(2010年)6月20日に長野市にて善光寺主催で開催された講演「善き光に導かれて—今、伝えたい心」が、第2部には平成22年(2010年)6月22日に金沢市にて佛性會主催で開催された法話「『般若心境』の解説—希望へのみちしるべ」が、第3部には平成7年(1995年)に金沢市にて開催された法話チベット仏教の教え」の一部が、それぞれ収録されています。

この本によると、チベット仏教には、「説一切有部(せついっさいうぶ)」、「経量部(きょうりょうぶ)」、「中観派(ちゅうがんは)」、「唯識派(ゆいしきは)」の4つの仏教哲学が伝わっているそうです。そして『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を読み解く際には、中観帰謬論証派の哲学に従うそうです。

この本に書かれている般若心経のエッセンスの解説は、これまでに読んだどの本よりもわかりやすいと思います。しかし私自身の言葉で説明できるところまでは、まだ理解を深められていません…。そこで備忘録を兼ねて、第1部第1節「『般若心経』のエッセンス」より印象に残った文章を以下に引用します。般若心経の「照見五蘊皆空」の部分の説明です。

  • 「自性による成立」とは、他のものに依存せず、それ自体の側から独立した実体を持って成立していることを意味しており、仏教では「自性による成立」がないことを「空(くう)」といいます。(p.14〜15)

  • 仏教では、「自我は、五蘊に依存して名前を与えられたことによって存在している」と説かれており、「自我」は五蘊に依存して存在しているので、自性による成立がなく、「空」の本質を持つものであるといわれています。(p.16)

  • そして、そのような「自我」の土台となっている五蘊もまた、自性による成立がなく、「空」の本質を持つものである(p.16)

  • 「自我」には自性による成立がなく、五蘊にも自性による成立がない、という二つの無我が説かれていますが、これを「人無我(にんむが)」と「法無我(ほうむが)」といいます。(p.17)

  • ナーガールジュナ(龍樹)は、その著作『宝行王正論』の中で、次のように述べられています。
    五蘊に対するとらわれ(法我執)がある限り
    自我に対するとらわれ(人我執)が存在する
    自我に対するとらわれ(人我執)があれば業が生じ
    業からさらに、[苦しみにあふれた来世の]生存が生じる(p.18)

ところでチベット仏教では、仏陀の三身のひとつ「法身」には2種類あるそうです。これまで読み落としてました。 今回とても興味深く読んだものの、まだまだ私自身の言葉ではうまく説明できないので、備忘録を兼ねて第3部第2節「仏教の帰依」から印象に残った部分を以下に引用します。(仏陀法身は、光り輝く汚れのない「自性身」と、智慧がわきいづる「智慧の法身」の2種類、これは言い換えると「いのち」と「智慧」の2種類である、という理解でよいかしら…)

  • すべての仏教徒が「仏陀・仏法・僧伽(そうぎゃ)」の三宝に帰依しています。(p.144)

  • 大乗仏教では、仏陀には、法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、化身(けしん)という3つのおからだがあるといわれています(p.147)

  • 法身には、自性身と智慧の法身があります。さらに、自性身には、本来的に清らかな姿である自性清浄法身と、煩悩障と所知障によって一時的に汚れていても、その汚れを滅することによって現れる客塵清浄法身があります。はじまりなき遠い昔から、私たちの心の本質は光り輝く汚れのないものであり、たとえ一時的な汚れを得ても、その汚れは滅することができるのです。このような光り輝く汚れのない心の本質が仏陀の境地に至ると、これが自性身になります。
    この自性身をもとにして、一切の知るべきものを知ることができるようになると、その智慧は智慧の法身と呼ばれます。(p.151〜152)

  • 釈尊は、三阿僧祇劫という無限に近い長い時間をかけて積まれた功徳と智慧の二資糧によって、すべての有情(うじょう)たちのために「この虚空が存在する限り、すべての生きとし生けるものために尽くします」という誓願をされました。その結果、悟りを開かれて涅槃に入られたあとも、この虚空が存在する限り、釈尊の加護が続いているのです。(p.152〜153)

最後に、この本の中で印象に残った言葉を以下に引用します。

  • ダライ・ラマ14世の友人である経験豊かな心理学者のお話)
    「私たちの心に怒りが生じるとき、私たちが怒りを感じている対象物は、大変ひどい嫌なものに見えていますが、実際には、ひどく嫌なものだというその感覚の90パーセントまでが、自分の心の中で作り出したイメージの反映にすぎません。」(p.32〜33)

  • 釈尊は、このように述べられています。
    「私の弟子たちはみな、私の教えを信心から受け入れてはならない。完璧にそれを分析し、調べてから受け入れるべきである」(p.85)

  • 私たちチベット人の口癖に、「母なるすべての生きとし生けるもの」という表現があります。(p.178)