法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

常識への忠誠心

(1)常識と空気

常識を大切にする人にとっては、常識は空気のような存在ではないかと思います。なくてはならない存在である一方で、当たり前すぎて普段はあまり意識することなく暮らしているのではないかと思います。

ところが私は、自他ともに認める常識のない人です。常識を大切にする人から見ると、おそらくとても変な人(理解しがたい困った人)に見えているのではないかと思います。逆に私から見ると、常識を大切にする人は理解を超えた存在です。お互いに理解しあうことは難しいかもしれません。


(2)常識と忠義

常識を作っているのはエライ人たちではないかと思います。古今東西のものすごくエライ人たちが骨格を作って、次にエライ人たちが肉付けして、その次にエライ人たちが枝葉を整えて、、そして身近なエライ人たちが噂話を主導して… 常識を大切にする人たちは、「寄らば大樹の陰」を実践しているのかもしれません。だからこそ、安心感と現世利益につながるのかもしれません。

しかし考えてみると、誰がエライ人かという判断は、人によって異なるのではないかと思います。そのため、常識を大切にしている人たちの間でも、細かな違いがあるのではないかと思います。おそらく見えない派閥があって、派閥が近い人とは話が合いやすく、派閥が遠い人とは反目しやすいのではないかと思います。

私は、日本人の多くは「常識教」の敬虔な信徒ではないかと思っています。「自然崇拝」ならぬ「社会崇拝」を特徴としているように思います。その観点からは、「派閥」というより「宗派」かもしれません。「宗派」に対して忠誠心を尽くすことが、安心感と現世利益につながっているのかもしれません。


(3)不忠義

一方、私は常識を鵜呑みにすることができません。そのため、常識を仮説のひとつとして受け取ることもあれば、常識を勝手解釈して世間とは大きく異なる仮説を心に抱くこともあります。また、生まれてこのかたの経験の蓄積から、私なりの(=常識外れの)仮説を立てています。

そして、様々な仮説を時々反芻してはブラッシュアップしています。重要度の高いものは、時間と予算と熱意が許す範囲で検証を試みたいと思っています。一人で自己流でやっているので、最初のうちはどうしても間違いが多く、また時間もかかります。しかし、納得度も満足度も高いです。

世間では、常識や噂話は「信じたり騙されたり」するものかもしれません。しかし私にとっては「検討したり検証したり」する対象です。

そのような訳で、私の言動は常識外れなことが多いと思います。常識を大切にする人からは不忠義者に見えているのではないかと思います。社会的な信用は相当低いのではないかと思います。


(4)常識を超える

話は大きく変わって、、

画期的な商品を開発するために、画期的な技術を開発する必要があるとします。

画期的な技術ですから、常識から二歩も三歩も進んでいます。するとほとんどの人からは、「常識を超える」プロジェクトではなく、「常識外れ」のプロジェクトに見えてしまうのではないかと思います。日本では、プラス要素は軽視されて、マイナス要素ばかりが注目されてしまうからです。

その対策として、リーダーは威勢のよさや頑張り具合を盛んに宣伝して、メンバーを援護する必要があるのではないかと思います。日本では、中身より印象が重視されるからです。

万一、援護に失敗すると、プロジェクトが取り潰されることがあるかもしれません。常識を超えようとした人たちには、無念なことだろうと思います。一方、常識を大切にする人たちからは、忠誠心の現れとして賞賛されるかもしれません。


(5)縄張り

日本人の多くは常識をとても大切にするので、常識や噂話をコントロールできる人は、実質的に大きな権限を持つことができます。

例えば、立派な肩書を手に入れたり、権力者を籠絡して「虎の威を借る狐」になったり、威勢よく頑張ってるように振舞ったり。そういった様々な工夫を通して、話を聞いてくれる人を増やします。また、情報の流通範囲を上手にコントロールすることで、効率よく情報操作しつつ、反撃を防ぎます。

そういった工夫を重ねて実力以上の権限を持った人からすると、常識や噂話をコントロールできる範囲は、一種の縄張りと感じているのではないかと思います。権力争いは、実は縄張り争いでもあるかもしれません。したがって、苦労して作った縄張りを荒らされると、強い怒りを感じるのではないかと思います。

ただし、縄張り内の人には安心感と現世利益を提供する必要があります。縄張りを広げれば広げるほど、利権を重視せざるをえなくなったり、様々な矛盾を(縄張り外の)弱者にシワ寄せせざるをえなくなったりするのではないかと思います。ときには法律や道徳に反する行為に手を染めざるをえなくなることもあるかもしれません。傍目には威勢よく見えても、心労と良心の呵責の絶えない立場ではないかと思います。

縄張り争いが激しくなると、ハリボテの栄光と、見せかけの連帯感と、激しい攻撃性と、シワ寄せによる地獄が、共存する社会になるのではないかと思います。情報コントロールの先には、心の休まることのない社会が待っていると思います。

心配症と常識

(1)心配症

常識を大切にされる方の中には、大変な心配性の方がいらっしゃるように思います。安心してもらおうと説明すればするほど、不安を募らせてしまうようです。どんな風に説明するとよいのかわからないでいましたが、最近ヒントをいただいたような気がしています。

常識を大切にされる方は、常識から外れること自体が大問題に見えているのかもしれません。常識から少しでも外れていると、心配で心配でたまらなくなってしまうのではないかと思います。いくら「常識から外れても問題ない」と説明されても、まったく納得できなくて、逆に「常識から外れるなんてとんでもないことだ」と不安を募らせてしまうのではないかと思います。


(2)マイナス要素

特に、常識ではマイナスと考えられていることがらについては、大きな不安を抱いてしまうのではないかと思います。そして、何をおいてもマイナス要因の対策を最優先にすべきであり、その対策としては常識的な方法を取るべきである、と考えるのではないかと思います。

そのため、「マイナスに見えるかもしれませんが、○○の理由から、実用的には問題ないですよ」と説明されても納得できなくて、「常識的な対策とは異なりますが、○○の理由から、こちらの方が効果が高いんですよ」と説明されても納得できなくて、ますます不安を募らせてしまうのではないかと思います。


(3)プラス要素

逆に、常識ではプラスと考えられることがらについては、あまり評価しないようにも思います。

例えば、ある分野で常識を塗り替えるような大発見・大発明をしたとしても、世間から注目されることはほとんどありません。ところが、ノーベル賞を受賞した途端に、世間から大きな注目を集めます。

あるいは、マイナーなスボーツで常識を超える大活躍をしても、世間から注目されることはほとんどありません。ところが、オリンピックやパラリンピックで金メダルを取ると、世間から大きな注目を集めます。

もしかしたら、ほとんどの人はプラス要素の中身には興味がないのかもしれません。中身を評価する代わりに、威勢のよさや頑張り具合など表面的なことだけを見て評価しているのかもしれません。ノーペル賞や金メダルなどは、威勢のよさの範疇で評価されているのかもしれません。


(4)印象と中身

このように、マイナス要素は重大視される一方で、プラス要素は軽視される傾向にあるように思います。その結果、あらゆる場面で減点主義が幅を利かせてしまうのかもしれません。

プラス要素が軽視される代わりに、威勢のよさや頑張り具合など表面的なことだけを見て評価されるので、中身より印象を強調した方が世間からの評価を高めることができるのかもしれません。逆に、印象より中身を重視する人は、世間から軽く扱われることを覚悟しないといけないのかもしれません。そのため、中途半端に加点主義を導入すると、中身より印象で差がついてしまう可能性が高いのではないかと思います。


(5)デコボコでOK

私事ながら、私は後遺症の影響とリハビリの成果により、「できること」「できないこと」のデコボコがものすごく大きいです。

そのため、「できないこと」が重視されて、「できること」が軽視される社会では、生きていくことができません。その反対の、「できること」に注目してもらえて、「できないこと」は支援/免除してもらえる社会でないと、生きていくことができません。

また、威勢よく振舞ったり、頑張ったりすることも得意ではありません。その反対の、無駄な力みをなくして、省エネ・ゼロエネを目指さないと、継続的に活動できません。試行錯誤を重ねながら、地道に「できること」を充実させていくことしかできません。

身勝手な考え方かもしれませんが、そのような生き方が許される世の中になるといいなと思います。

日本人の多くは常識教の敬虔な信徒ではないか

(1)常識教

私は自他ともに認める「常識のない人」なので、世間の常識はほんの一部しか知りません…

限られた知識の範囲内で思い出してみると、世間の常識の骨格は全国的におおよそ共通ですが、細かいところはコミュニティによる差があったり、体験を通じた個人差があったりするように思います。

細かい差異はあるにしても、常識を大切にする人たちは、常識の想定内に収まることをとても大切にしているように思います。個々の常識について、その妥当性とは関係なく、遵守することが大切なようです。

そして、常識の想定内に収まって暮らしていると、ご利益があると考えているようです。例えば、身の回りの人たちと阿吽の呼吸で助け合って生きていけたり、行政等の大組織から救いの手が差し伸べられたりといった、目に見える現世利益があると考えられているようです。

また、常識の想定内に収まらない人を見ると怒りの感情が沸き上がり、常識の想定内に収まらない事態が発生すると不安になるようです。常識は生きる規範であると同時に、心の拠り所となっているように思います。

このように考えると、日本人にとっての世間の常識は「不文憲法」ならぬ「不文聖典」という位置付けではないかと思えてきます。日本人の多くは無宗教だと思っているようですが、実際には「常識教」の敬虔な信徒ではないかと思います。日本人の多くは、常識の「おかげ」に守られながら暮らしているのではないかと思います。その一方で、異教徒(常識のない人)には冷酷な側面もあるように思います。


(2)引き上げる

常識教の敬虔な信徒どうしは、助け合って暮らしているようです。特に困っている人に対しては、自分のことを後回しにして、親身になって支援するようです。

その際、困っている人自身には細かいことは相談せず、周りの人たちで話し合って、常識に従って支援内容を決める傾向があるように思います。

常識教の敬虔な信徒であれば、常識に従って支援内容を決めてもらうと、自動的に本人の希望とほぼ一致します。本人の希望とのズレはわずかなので、微調整が必要な場合でもすぐに対応してもらえます。仮に本人が遠慮しても、ぐいぐいと支援を続けてもらえます。困っている人にとっては、とても心強い存在ではないかと思います。


(3)引き落とす

ところが、異教徒(常識のない人)にとっては、大変困った事態を引き起こすことがあります。

本人に相談なく噂話だけで周りの人たちが動くので、知らないうちに「とても困っている人」にされて、「困っている人を助けよう」と話が進んで、綿密な計画が立てられます。そして、遠慮されることのないように十分に計算された方法で声をかけてきます。(例えば「ちょっと助けて」)

そして、あれよあれよという間に、とても困った状態に引き摺り下ろされてしまいます。そこから抜け出そうと奮闘しても、ぐいぐいと引き摺り下ろされます。みんなが諦めるまで、そして「やる気のない人」というレッテルを貼って見放されるまで、それが続きます。見放された本人は、やれやれと一息ついてホッとすると同時に、どうやって立て直そうかと考えてゾッとすることになります…

もしかしたら、あまり敬虔ではない常識教徒も、いくばくかの困った経験をしたことがあるかもしれません。


(4)常識の遠近感

ところで、常識教の敬虔な信徒には、なんとなく見えない階層構造や仲間意識があるのではないかと思います。そのため、階層の近い人どうし、特に親しい人どうしで助け合う傾向があるように思います。

逆に、階層が大きく離れている人に対しては支援が形式的になる傾向があるように思います。また、まったく知らない人がどんなに困っていても(例えば路上で倒れていても)、見て見ぬふりをする傾向があるように思います。それどころか、自己責任論を振りかざして支援を止めさせようとすることもあるようです。

もしかたら、常識が近そうな人どうしでは助け合う一方で、常識が異なりそうな人とは距離を置いたり反目しあったりするのかもしれません。


(5)結束と排撃

このように、日本人の多くは「常識教」の敬虔な信徒ではないかと思います。

ただし、「常識教」内は多数の宗派に枝分かれしているのではないかと思います。そして、宗派が近そうな人に対して親近感を抱くと同時に、宗派が遠そうな人とは距離を置くのではないかと思います。宗派が近ければ近いほど距離感は近く、宗派が遠ければ遠いほど距離感は遠くなるのではないかと思います。

しかし、宗派がどんなに枝分かれしていても、元はひとつです。危機に際しての信徒の結束力はとても高いのではないかと思います。危機が高まれば高まるほど、みんなして常識に従って行動するように思います。それと同時に、異教徒に対する排撃も強くなるように思います。例を挙げるとすれば、戦時にも、戦後復興期にも、災害時にも、感染症流行期にも…

作文能力と気温

(1)非言語思考の言語化

私は普段は言葉を使わずに考えます。小学校高学年頃からの習慣なので、言葉を使って考える方法はすっかり忘れてしまいました。そのため、情報の入出力に際しては、頭の中で非言語化言語化の変換作業が必要です。

例えば、考えた結果や過程を伝えようと思うと、言語化作業が必要になります。発症からしばらくは、言語化作業は手間暇かかる面倒な作業でした(言葉で伝えるのが難しいくらい、複雑な作業でした)。リハビリを続けてきた結果、お陰様で昨年春頃から言語化作業が随分と簡単にできるようになりました。とても助かっています。


(2)言語化と気温

ただし、脳の活動力の影響を大きく受けるため、気温の影響を大きく受けてしまいます。

例えば今年は、暑い季節には調子良く言語化できてました。ところが秋の気温になって、真夏と同じ要領では言語化作業が思うようにできなくなりました。このままでは、これから気温が下がるにつれて、さらに調子が落ちていくのではないかと思います。

おそらく、伝えたい内容を細切れにして、少しずつ言語化作業していけばよいのではないかと思います。その際、細切れの大きさを、気温が下がるにつれて小さくしていけばよいのではないかと思います。しかしながら、これは「言うは易く行うは難し」です…

実際には、気温が大きく変わるたびに試行錯誤して、その時々の状況に適した言語化の要領を見つけていくことになると思います。そのため、作文能力が一時的に不安定になるのは今は仕方のないことかもしれません。この先、リハビリが進んでいけば、状況が改善されていくことと思います。

いつの日か、一年を通して安定的に文章を書けるようになりますように。

思い込みを疑う

(1)思い込む

人は様々な思い込みを抱えて生きています。

思い込み通りにものごとが進んでいるときは機嫌がよいのですが、思い込み通りにならないときは感情的になって、怒りが湧き上がったり不安に苛まれたりするようです。


(2)繰り返す

なかには、思い込み通りにならないときには、同じことを何度も繰り返し実行して、思い込み通りの結果が得られるまでひたすら頑張るタイプの人がいるように思います。

例えば、失敗すればするほど同じ方法に固執してひたすら繰り返したり、「できる」はずのことが「できない」人がいると「できる」まで繰り返させたりする人がいるように思います。

本来であれば、失敗の原因を分析したり、できない理由を分析したりした上で、次の行動を考えるべきではないかと思います。例えば、ちょっとした工夫や助言で状況を大きく改善できることは多いのではないかと思います。あるいは、そもそも不可能だと判明することもあるかもしれません。

しかし、思い込みが強いと「失敗すること自体が間違い」「できないこと自体が間違い」としか考えられなくて、同じことを何度も繰り返してしまうのかもしれません。


(3)得意を伸ばす

その結果、根性論が幅をきかしたり、弱い者いじめが正当化されたりするのかもしれません。

しかし実際には、Aさんには超簡単なことでもBさんには不可能だったり、逆にAさんには不可能なことでもBさんには超簡単だったりすることは、よくあることだと思います。

できないことや苦手なことに注目するのではなく、できることや得意なことに注目すると、世の中がまったく違って見えてくるのではないかと思います。


(4)「はず」を疑う

プログラムのデバッグでは、自分の中にある「○○なはず」を洗い出して調査すると、すばやく解決することが多いように思います(もちろん、適切にデザイン&プログラミングされている場合の話です)。

同様に、思った通りにならないときは、自分の中にある「○○なはず」を疑って検証すると、解決が早いかもしれません。

五日月と明星

今宵は旧暦五日の美形の月と宵の明星が絶妙な位置関係でした。

お月様の形は毎日変わりますが、私は旧暦五日のお月様の形が一番好きです。

宵の明星と並んだ姿は一段と美しく、吸い込まれそうになりながら見惚れてしまいました。

超高性能バイオ・ロボットの船長として生きている

(1)バイオ・コンピュータ

人の心をある角度から見ると、ある種の構造があって、アルゴリズムもあって、データが蓄積されていて、入出力もあって…、という風に見えるのではないかと思います。すなわち、ある種の機械(バイオ・コンピュータ)が稼働していると見なすことができるのではないかと思います。

一人一人の心の動きを超高性能バイオ・コンピュータのアルゴリズムとして記述できるのであれば、集団心理は分散アルゴリズムとして記述できることになります。その視点を突き詰めてみたいと思っています。


(2)リハビリは重要

そのために必要なのは、(1)多様な体験の蓄積、(2)分析力と文章力、(3)作業時間、ではないかと思います。

このうちの「(1)多様な体験の蓄積」については、通常は様々な体験談を聞き集める必要がありますが、幸い私は罪悪深重・煩悩熾盛の極悪人なので、悪行と悪業には恵まれています。また、「(3)作業時間」については、悪人はなかなか死ねないとも聞きますので、時間はたっぷりありそうです。

したがって、「(2)分析力と文章力」の向上に努めたいと思っています。言い換えると、思考能力と作文能力のリハビリに努めたいと思っています。


(3)バイオ・ロボット

突き詰めた結果、どのような結果が得られるのかは、現時点ではまったくわかりません。

しかし、ひょっとしたら、構造的な要(かなめ)にはインドの古い言葉で言うところのクレーシャとサンスカーラが位置しているかもしれません。そして、私たちはクレーシャとサンスカーラに操られたバイオ・ロボットだ、という結論になるかもしれません。

あるいは、せっかく超高性能バイオ・ロボットを与えられているのに、操縦方法を大きく間違えて「宝の持ち腐れ」状態にある、という結論になるかもしれません。船長としての手腕が問われているのかもしれません。

どのような形にしろ、私なりに納得のいく結論を得ることができるように、リハビリと研鑽を続けたいと思います。