法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

無意識の格付け

(1)格付け

日本では、身の回りの人や有名な人たちに対して、無意識のうちに次のような格付けを行っている人が多いように感じています。

  • 〔上〕あの人たちには逆らえない。おとなしく従おう。
  • 〔中〕私たちは優秀だ。もっと優遇されるべきだ。
  • 〔下〕あいつらはゴミだ。冷遇すべきだ。
  • 〔悪〕あいつらは悪い奴らだ。懲らしめるべきだ。

具体的にどのような人たちをどのように評価するかは、人それぞれだと思います。例えば、自分に対する影響力の大きな人たちを〔上〕、気の合う仲間を〔中〕、おとなしくて優しい人たちを〔下〕、気に入らないので憂さ晴らしの対象にしたい人たちを〔悪〕、などです。(そのような格付けが自分の中にあることを認めたくない人は多いかもしれません)

格付けの傾向が似ている人同士は、本音で語り合えるので、気が合いやすいのではないかと思います。逆に、仲間外れにされないために周りに合わせて、気苦労が絶えない人もいるかもしれません。人々の本音の格付けを敏感に感じ取って行動できる人は、ボスとして受け入れられやすいように思います(例えば、政治家、リーダーなど)。

このような格付けの世界に馴染めない人もいると思います。残念ながらそのような人たちは、周囲から〔悪〕と格付けされて、居場所を失ってしまうことになるかもしれません。それもひとつの生き方だと思います。


(2)差別したい心

上記の4段階の中でも〔上〕と〔悪〕に対する態度は先鋭化することがあります。

例えば、「○○国には精一杯尽くして、□□国は思い切り足を引っ張ろう」「○○人はひたすら礼賛して、□□人はとにかく貶めよう」「○○社は常に別格で、□□社は常に論外だ」などなど…

いずれも差別であり、〔悪〕と格付けられた人々に対するヘイトでもあると思います。

おそらく、顕在意識レベルで考えている理屈は後付けで大きな意味はなく、潜在意識のどこかにある「誰かを差別したい」という心が暴走して差別(ヘイト)しているのではないかと思います。差別のターゲットは本質的には誰でもよくて、「赤信号みんなで渡れば怖くない」とばかりに、声の大きな集団の真似をしているだけであることが多いのでないかと思います。

そのため、差別的な言動をやめてもらうために「あなたの差別には根拠がない」と丁寧に説得したとしても、「馬の耳に念仏」になることが多いのではないかと思います。理屈だけでは、潜在意識に潜む「誰かを差別したい」という気持ちに響かないからです。

差別的言動をやめてもらうには、潜在意識に潜む「誰かを差別したい」という気持ちをなくしてもらう必要があると思います。


(3)漠然とした不安

何十年も昔のこと、特定の国々を「鬼畜」と呼んで罵倒していた時代がありました。ところが 8.15 を境に人々の態度が急変しました。前述の格付けで言えば、8.15 を境に連合国の位置付けが〔悪〕から〔上〕に変化したのではないかと思います。

おそらく当時も、顕在意識レベルで考えていた理屈には本質的な意味はなく、潜在意識レベルにある「誰かを悪者にしたい」という心を満足させるためにとりあえず連合国を〔悪〕と格付けしていたのではないかと思います。世情に合わせていただけで、本質的には誰でもよかったのではないかと思います。だからこそ、8.15 の玉音放送で潜在意識レベルに大きな衝撃を受けた瞬間に、格付けを大きく変えることができたのではないかと思います。

時代は下って、、昨年春頃から特定の感染症に対して大きな恐怖心を抱いている方々がたくさんいらっしゃるように思います。前述の格付けで言えば、感染症は〔悪〕、現代医学は〔上〕と位置付けられているのではないかと思います。人々が漠然と抱いている不安の具現化を、その感染症が一手に引き受けているのではないかと思います。

圧倒的多数の人たちから〔悪〕と格付けされる対象は滅多に現れるものではありません。世界中の話題をさらう感染症の登場を機に、長年抱えている不安が一気に吹き出してしまったのかもしれません。その反動で、現代医学が提供する治療方法(注射)が救世主のように思われているのかもしれません。

そのため、感染症の実態について冷静に情報を伝えたとしても、耳に入らないのではないかと思います。感染症は〔悪〕で現代医学は〔上〕を前提とした情報だけが、耳に入るのではないかと思います。潜在意識レベルで大きな衝撃を受ける日まで、この格付けは変わらないのではないかと思います。

いずれの例も、人々の漠然とした不安を具現化するために、潜在意識レベルで格付けを行って、顕在意識で後付けの理由を探しているのではないかと思います。そのため理屈は力を持たないのではないかと思います。冷静になってもらうためには、漠然とした不安を消してもらう必要があると思います。


(4)心のあり方

人間の意識における顕在意識の役割は、世間の人が思っているよりもずっと小さいのではないかと思います。少なくとも、潜在意識の役割とは比べ物にならないくらいに小さいと思います。

そのため顕在意識に働きかけても馬耳東風で終わることが多いのではないかと思います。運よく顕在意識が納得したとしても、潜在意識の力であっという間に揺り戻されてしまうのではないかと思います。潜在意識が変わらない限り、人は変わらないのではないかと思います。(だからと言って、扇情的な情報提供に流れるのは、好ましくないことだと個人的には思います)

今はうまく説明できませんが、上述の格付けは、自己否定の心が生み出していると思います。人々の自己否定の心は、様々な社会問題を引き起こしていると思います。自己否定の心をなくしていくことは、とても大切なことだと思います。人々の心から自己否定の心が薄らいでいくと、社会が大きく変わると思います。人々の心の在り方はとても大切だと思います。

梅雨から盛夏へ

私は1日にできることが限られているので、読書ばかりしていると、他のことができなくなってしまいます。後遺症の影響で読書後はどうしても脳の回転力が落ちるため、読書後しばらくは簡単な頭脳作業しかできなくなってしまうだけでなく、肉体作業も体に馴染んでいることしかできなくなってしまうからです。

また、私は顕在意識の思考力が弱いため、読書後にあれこれ考える代わりに、潜在意識の中で醗酵させる時間が必要になります。そのため、連続的に読書するよりも、醗酵期間を十分に取りながら少しずつ読書した方が、読書から得るものが大きいように思います。

ときには読書三昧の日々を送りたくなることもありますが、普段は読書時間を控えめにした方が、日々の暮らしが楽になるように思います。このところ読書時間を長めに取ってきましたが、梅雨明けを機に、そろそろ暮らしの重心を読書以外のことに移したいと思っています。特に内面を整理したり、身の回りを整理したりする時間を大切にしたいと思います。

現代の「バベルの塔」は放棄されるか

(1)小進化と大進化

一般に研究者は、文献を読み込んだり、調査や実験を繰り返したりすることを通して、人類の進歩に大きく貢献していると考えられています。

しかし、ひとつひとつの分野はあまりに複雑になりすぎて、ひとりひとりが十分に理解することが難しくなっているのではないかと思います。そのため、各分野の既存の定説はおおむね正しいという前提のもとに鵜呑みにして、既存の定説の上に自分の業績を積み重ねていくしかなくなっているのではないかと思います。

本来であれば、過去の成果を偏見なく再評価するだけの余裕が必要だと思います。なぜなら、ある分野が大きく発展していくためには、知見を丁寧に更新していく(小進化)だけでなく、パラダイム変換(大進化)を繰り返す必要があると思うからです。


(2)砂上の楼閣

しかし、予算も人員も時間も限られているなかで成果を出し続けるためには、過去の成果を再評価する余裕のないまま、「慣性の法則」に従って突き進んでいくしかない分野は多いかもしれません。また、巨大企業をスポンサーに持つがゆえに、企業の意向に沿った研究成果しか評価されない分野もあるかもしれません。

その結果、事実と定説の乖離が進んだ分野が多々あるのではないかと思います。残念ながら身内からのチェックはどうしても甘くなるため、代わりに在野の人たちから定説に対して異議が上がることは、珍しいことではないように思います。

近現代史に記録されている公害・薬害・事故・人災等は、御用学者ですら誤りを認めざるを得なかった劣悪な事例のみではないかと思います。これらは問題全体の中では「氷山の一角」にすぎず、関連性を認めることを拒否した(言い逃れできた)事例は山のようにあるのではないかと思います。

これまでに「現代の叡智」として積み上げてきたことは、実際には「砂上の楼閣」にすぎない部分が多いのではないかと思います。そしてこれからも様々な問題を山のように起こしていくのではないかと思います。


(3)資本の意志

本来であれば、あらゆる分野のあらゆる知見は、絶え間なく再評価されるべきだと思います。真剣な再評価は、先人の知見を深く学ぶためのすばらしい機会になると思います。全体を深く理解できた人だけが、それぞれの分野を大きく発展させたり、新しい分野を切り開いたりできるのではないかと思います。

しかし公的な研究予算が限られている現状では、スポンサーと懇意になって、スポンサーの意向に沿った研究成果を出せる人だけが出世できるのかもしれません。それがゆえに、その分野のプラス面が大きく進展するという利点を持つ一方で、内在するマイナス面が「なかったこと」にされてしまうという欠点もあるように思います。

近年では、人間の理解力を遥かに超えてしまったがゆえに、「資本の意志」に従うしかない分野が多々あるように思います。例えば、軍事、医療、土木、化学、農業、情報などなど… 実際にはかなり広範囲に広がっているのではないかと思います。


(4)バベルの塔

旧約聖書「創世記」に登場する「バベルの塔」は、お互いに言葉が通じなくなったがゆえに、建設が放棄されてしまったそうです。

「現代の叡智」建設を眺めてみると、人間の理解力を遥かに超えてしまったがゆえに、分野が違えば言葉が通じず、同じ分野でも立場が違えば言葉が通じず(議論が噛み合わず)という状況になっているように思います。「現代の叡智」建設が放棄される日が近付いていることを示しているのではないかと思います。


(5)太古の叡智

それでは、そのあと人々はどこに向かって進んでいくでしょうか。予想内容は人によって大きく異なることと思います。

私は「太古の叡智」に戻るのではないかと思っています。喩えるなら、アニメ『未来少年コナン』のハイハーバーのような方向性、あるいはアナスタシア・シリーズの「一族の土地」のような方向性です。大自然の法則と人間の潜在能力を存分に活用した暮らしになるのではないかと思います。現代人から見ればファンタジーのような世界かもしれません。私の頭の中が御伽噺で満ちているだけかもしれませんね(笑)

思い込みと読書

(1)思い込み

私の心の中にはたくさんの思い込み、たくさんの当たり前があります。

「○○は□□のはずだ」「××は△△なものだ」などなど。

当たり前すぎて、疑問に思ったことも、存在を意識したこともない思い込みが、生まれてこのかた、私の心の中に無数に積み上げられてきたことと思います。そしてこれからも積み上げていくことと思います。(できることなら消してしまいたいのですが…)

そういった思い込みを通して、日々の体験・対話・見聞を解釈しています。そして、たくさんの誤解を生み出していることと思います。


(2)読書

特に読書では誤解が顕著に現れやすいのではないかと思います。

会ったこともない人の思いや考えを、文章だけで読み取ろうとするからです。

「きっとこんな風に感じたんだろう」「きっとあんなことを言いたかったんだろう」などなど。

深く理解するために、同じ本を何度も繰り返して読むことを勧める人もいます。1回目よりも2回目、さらに3回目と、理解がどんどん深まって、誤解もどんどん減っていくからです。根気のある人にはとてもよい方法だと思います。

しかし私は飽きっぽいので、同じ本を繰り返して読むと圧倒的に集中力が落ちてしまいます。そこで、興味を持った本があれば、同じ人の本をあれこれ読んだり、同じテーマの本をあれこれ読むようにしています。同じテーマについて視点を変えて読むことができれば、理解が少しずつ深まって、誤解も少しずつ減っていくと思うからです。


(3)群盲象を評す

「群盲象を評す」という言葉があります。Wikipedia によると、「数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話」とのことです。

私の読書方法を喩えると、できるだけたくさんの盲人から話を聞けば、象のことが少しは分かるのではないか、という考え方です。場合によっては、人によって話が大きく違っていて、とんでもなく混乱してしまうこともあるかもしれません。それでも、さらにたくさんの盲人の話を聞いているうちに、だんだんと共通項が見えてきたり、耳を傾けるべき人が見えてきたりするのではないかと思います。


(4)伝え方

先日読んだアナスタシア・シリーズは耳を傾けるべき本だと思ったので、繰り返し読みたいと思っています。今はインドで覚者と言われている人の本を読んでいるのですが、アナスタシア・シリーズで得た理解がとても役に立っています。インドの覚者は抽象的に語りますが、アナスタシアは行為で語ります。伝え方が全然違うので、どちらからもいろんな学びをいただけます。

何年か前に、王仁三郎の霊界物語シリーズ(81巻83冊)のうちの第1巻〜第72巻を2回読みました。この本は小説ですが、所々で抽象的な解説が書かれています。抽象的な文章は、分かったつもりになることは簡単ですが、本当に理解するのはとても難しいです。しかし小説の部分から、著者が伝えたいことを情緒で受け取ることができます。何を受け取ったのか自分では十分には把握できないまま、いろんなことを受け取っています。そして抽象的な文章を読むことで、書かれている内容への理解が進みます。このシリーズからも、アヒンサー(非暴力)をはじめ、たくさんのことを学ぶことができました。しかし、アナスタシア・シリーズ同様、何を受け取ったのかを文章化することはとても難しいです。と言う訳で、いつの日か3回目の読書に挑戦したいと思っています。

仏典もおそらく同じで、抽象的な文章だけでは伝わらないかもしれないので、比喩として物語が多用されているのではないかと思います。中には「お釈迦様が伝えたかったことを間違いなく伝えよう」とばかりに、後世の人たちが作った物語もたくさん含まれているかもしれません。わかりやすい物語もイマイチな物語もあるかもしれません。先人の工夫を、後世の人たちが上手に受け取っていく必要があるのではないかと思います。

そんなこんなで、私は同じ本を何度も読むよりも、いろんな本をあれこれ読む方が理解が進みやすいタイプのようです。ちゃんと受けとれているか、はたまたアサッテな受け取り方をしているかは、私自身にはわかりませんが…

世の中を支えている人々

(1)イジメか甘えか

仮に、Aさんは相手によって態度を大きく変える人で、Bさんの前では努めて善人として振る舞い、Cさんの前では横柄で傍若無人に振る舞うとします。(例えば、Aさんは野心家で、Bさんは権力者で、Cさんは現場人もしくは家族かもしれません)

一般的には、AさんはCさんに対して弱い者イジメをしている構図ではないかと思います。

しかし見方を変えると、AさんはCさんに甘えているのかもしれません。Aさんは心が壊れそうな苦しみを抱えていながら、Bさんの前では懸命に理想の自分を演じているものの、優しいCさんの前ではついつい心が緩んで、自分の心の苦しみを「イジメ」という形で吐き出してしまう… もしかしたら本心では、「Cさん、助けて!」と叫んでいるのかもしれません。そしてCさんに、「よしよし、いいこだね、あなたはとってもすばらしい人だよ」と慰めてほしいのかもしれません。(Cさんとしては良い迷惑だと思いますが…)


(2)救いを求めて

一般に、強者の前では全神経を集中して気を使いながらも、弱者の前では横暴に振る舞う人がいるとしたら、その人は弱者に対して甘えているのかもしれません。言い換えるなら、自分自身の心の中にある大きな苦しみに耐えきれなくなって、弱者に救いを求めているのかもしれません。

しかしほとんどの場合、横暴な言動は弱者の心身を大きく傷付けて、大きな問題に発展するのではないかと思います。場合によっては、弱者の訴えは握りつぶされて泣き寝入りせざるをえないこともあるかもしれません。いずれにしても、双方にとって不幸な事件となってしまうことと思います。

ところが万一、弱者が菩薩のような人であれば…、横暴な人の心の苦しみは癒えて、人がすっかり変わってしまうかもしれません。もしかしたら横暴な人は、弱者の中に菩薩を見ているのかもしれません。そして心が救われることを願っているのかもしれません。(菩薩として振る舞える人は、かなり限られていると思いますが…)


(3)救い救われ

幸か不幸か、私は普通の人とはあれこれ違うようで、軽く扱われたり、馬鹿にされたり、邪険にされたり、カモにされたりすることがあります。残念ながら私は心が狭いので、あまり心地よく感じることができないでいます。

しかし考えてみると、みなさん私に甘えているのかもしれません。私に救いを求めているのかもしれません。そして私の中に菩薩を見ているのかもしれません(笑)みなさん私のことを買い被っているのかもしれません(笑)

仮にそんな風に思われているとしたら、、私も彼らの中に菩薩を見ることのできる人になりたいと思います。そして救い救われる関係になりたいと思います。すべての心の苦しみがいつの日か消え去りますように。


(4)縁の下の力持ち

日本では、COVID-19 対策をはじめ、困りごとを弱者にシワ寄せする対策が好まれる傾向があるように思います。国を挙げて弱い者イジメが行われているように思います。

しかしもしかしたら、世の中の人たちは弱者に甘えて、救いを求めているのかもしれません。世間は、弱者の中に菩薩を見ているのかもしれません。本当は弱者こそが日本を支えているのかもしれません。

日本を支えている弱者にきちんと敬意を表して、待遇改善を図ることはとても重要なことだと思います。

アナスタシア・ロシアの響きわたる杉シリーズ

(1)アナスタシア

アナスタシア・ロシアの響きわたる杉シリーズを読みました。

ロシアの起業家がシベリアでうら若き覚者アナスタシアに出会い、生き方を変え、体験記を10巻まで出版しました。大地とともに暮らし、平和な心を持ち、創造の喜びに満たされて生きる。喩えるなら現代版「エデンの園」の提案です。ロシアのダーチャ(郊外の別荘付き家庭菜園)の延長線上にあるような提案でした。ロシアでは大ベストセラーとなり、各国で翻訳書が出版されています。

私にとってはアヒンサー(非暴力)について、実話を通して理解を深めることのできる本でもありました。それ以外にも様々なテーマについて語られています。アナスタシアの視点は、現代人の視点とは角度が大きく異なるため、大変申し訳ありませんが私の表現力では内容を上手に伝えることができません。敢えて喩えるなら、賢者の言葉ではなく、覚者が語っているような本でした。しかも、とても親しみやすい覚者です。

残念ながら、私の拙い読解力では表面的にしか理解できてないと思います。繰り返し読みたいシリーズのひとつとなりました。


(2)シリーズについて

著者の名前はウラジーミル・メグレ(1950年7月23日ウクライナ生まれの男性)、覚者の名前はアナスタシア(1968年シベリアのタイガ生まれの女性)です。

著者がアナスタシアの元を初めて訪れたのは1995年のことだそうです。時代的には、1991年末にソビエト連邦が崩壊してCIS(独立国家共同体)に変わり、ロシアがまだ混乱期にあった頃のことです。わずか3日間の滞在で起業家だった著者の心境が大きく変わり、大きな事業を降りて著述家となりました。著述家としては無名だった著者の本を熱烈な読者が応援して、あれよあれよという間にベストセラーになったそうです。

原著(ロシア語)の第1巻が出版されたのは1996年で、2010年までに第10巻までが出版されています。まずロシアで大ベストセラーとなり、各国で翻訳書が出版されています。日本語訳は2012年から順に出版され、現在第8巻(上)までの8冊が出版されています。

アナスタシアはギリシア語の「復活」を意味する言葉に由来する名前だそうですロシアにはアナスタシアを名前に持つ女性はとても多いそうです。「エデンの園」の「復活」を提案するアナスタシア。とても象徴的な名前だと思います。

不妄語(サティヤ)

仏教の五戒に「不妄語」戒があるそうです。「偽りを語らない」という意味だそうです。ヨーガやジャイナ教の五戒にも同趣旨の戒があって、「サティヤ(satya=真理)」と呼ばれています。

不妄語は偽りを口にすることを禁止する戒ですが、それを一歩進めて、心の中でも偽りを思わない、行動でも偽りを示唆しない、と捉えたいと思っています。言い換えると、身口意一致を前提としたサティヤを目指したいと思っています。

心の中でも偽りを思わないようにするためには、心のあちこちから湧き上がってくる「妄想」を止めないといけません。そのためには心を清浄にする必要がありそうです。私のようなものが心を清浄にしようと思っても…、間違いなく56億7千万年後にも濁り切っていることと思います… 私には他力しかなさそうです(笑)

しかし、夢は大きく身口意一致のサティヤを目指したいと思います。

(なお、仮説を立てたり推論したりすることは「妄想」には含めません。仮説も推論も真偽判定の前段階だからです。禁止したいのは、明らかに偽りであること、明らかに根拠のないことです。)


サティシュ・クマール(著)『君あり、故に我あり』第8章によると、ジャイナ教の五戒は下記の5つだそうです(括弧内は私の勝手解釈です)。

  • Ahimsa(非暴力、ありのままに受け入れる)
  • Satya(真実、あるがままを語る)
  • Asteya(盗まない、欲張らない)
  • Brahmacharya(清らかに暮らす)
  • Aparigraha(持たない、足るを知る)

おそらくジャイナ教に限らず、インドの伝統的な五戒です。ただし、宗派や伝統によって解釈が少しずつ異なるかもしれません。頭文字を並べると ASABA なので、日本人には覚えやすいです(なお、先頭の「A」は英語の「un」に相当する否定の接頭辞だと思います)。

私はインドの人ではないので、私なりの勝手解釈でこの5つを大切にしたいと思っています。戒なので例外も言い訳も作ってはいけません。まずは最初の二つ、ahimsa と satya から取り組んでいきたいと思っています。


〔追記〕

日本には言霊(ことだま)という考え方があります。口にした言葉が、そのまま実現してしまうという考え方です。そのような観点からも、偽りを口にしてはいけなさそうです。